武田の有名な武将たち二十四将どれだけ凄かったのかまとめました

名だたる武将には、名の残る家臣がいるものです。武田二十四将も後世に付けられた名ではありますが、武田の家臣団にも優れた武将が揃っていたことになります。二十四将は時に、選ぶ人によってメンバーが変わるようです。二十四将の中から主だった武将を選んでみました。

目次

  1. 武田信玄と武田二十四将
  2. 武田と上杉の戦い川中島
  3. 武田二十四将
  4. 武田の旗印
  5. 武田の二十四将まとめとして

武田信玄と武田二十四将

武田二十四将とは後日江戸時代に纏めた名称で、武田信玄公を中心に入れた二十三の武将のことで他に武田勝頼を中心に置いたものも存在しています。

武田の家系

二十四将の中には武田一族から、勝頼を含めて四名が名を連ねています。

武田勝頼

この人は人によって、ダメな二代目とする人と勇猛な武将としての評価が分かれる人物です。
父信玄は慎重に事を進めていくどちらかと云うと二代目タイプで、勝頼は勇猛果敢な初代タイプと云われています。逆に生まれていたなら違った一生と評価があったのかもしれません。
勝頼は、武将としての資質に恵まれていたようで武功を数多くあげています。しかし執政にはむいていなかったのか、領地内の執政に失敗したことが武田家の最後を決めてしまったのかもしれません。

一条信龍

武田信虎の末子、武田信玄公の異母弟信玄の遺言によって武田勝頼の後見人になっています。
とても派手好きだったと伝わっており、常に後衛を担当していたこともあって武勲はあまりないようです。
最後まで遺言を守り、武田の為に勝頼を支えて奮闘した一生だったといえるのではないでしょうか。
天正10年(1582年)織田信長の甲州征伐にて、三河勢1万に対して3百の手勢を率いて息子信就と共に討死しています。

武田信繁

武田信虎の次男で、父に可愛がられ家督も譲ろうとしたと云われています。しかし、親の気持ちとは裏腹に信玄と共に父信虎を追放しています。
諏訪侵攻では、大将を務めており武田の外交も担い合戦においては信玄の名代として指揮を執っていた信玄の右腕と云われていた人物です。激戦の第四次川中島の戦いにおいて討死しています。
その死に信玄は号泣し、家臣団のみならず敵将上杉謙信もその死を悼んだと云われています。
ちなみに、嫡男に書き置いた家訓99箇条は江戸時代の武士の心得として広く読まれていたといいます。

武田信廉

武田信玄公の兄弟の中で瓜二つで、側近の家臣でも見分けがつかない程似ていたと云われ影武者を演じきった人です。
長篠の戦いにおいて、二番手で攻撃を仕掛けています。けれど最後はあっさりと城を明け渡し残党がりで捕まって斬り殺されています。享年51歳、戦いの日々に最後くたびれてしまったのかもしれません。
父信虎を最後城に引き取り、面倒を見た優しい面も有るのです。

真田系統

真田が家臣団にいたのですから、戦国最強と云われたのもうなずけます。
智略家と云われた、真田幸隆をはじめ四人の息子達が家臣団に名を連ねています。
真田幸隆も二十四将に名を連ねる武将です、父と三人の息子が一緒に入っているのは真田だけです。

真田信綱

真田幸隆の嫡男、武田の中でも先鋒を務めることが多く初陣では一番槍の武功をあげています。
三増峠では、弟昌輝や内藤昌豊と共に殿軍を務めて戦功をあげほとんどの戦いに名連ねています。
信玄にも嘱望された、豪勇の持ち主だったとされています。
長篠の戦いにおいて三尺三寸の陣太刀・青江貞を振るい馬防柵をなぎ倒しながら進むも鉄砲隊の銃撃に倒れ弟昌輝と共に討死。

真田昌輝

真田信綱のすぐ下の弟で、兄信綱と共に出陣することが多かったようですが単独でも武勲をあげています。「真田昌輝は我が両目」と、武田信玄公に云わせるほどの武将だったということでしょう。
長篠の戦いの設楽原決戦場において、右翼の一端を担い織田方の左翼を守る佐久間信盛の陣に突撃し首級をあげるも深手を負い傷が元で討死。

真田昌幸

真田昌幸は、真田信之・信繁(幸村)兄弟の父です。昌幸もまた兄昌輝と同じく、信玄公から我が両目と云われた武将です。
大阪城に真田が入ったの報告に「親か倅か」と、聞き返しています。もうすでに昌幸は病死していたにもかかわらず、徳川家康が聞き返したほど最も恐れた武将です。
知略を駆使し、戦国の世を生きぬいた策略家です。

武田と上杉の戦い川中島

川中島の戦いは、二回ではないのかとか四回とも五回行われたとも云われています。第四次の戦いが一番の激戦と云われ武田信繁と山本勘助が討死しています。

軍師 山本勘助

謎の多い人物と、よく云われています。近年「山本菅助」と山本勘助は同一人物と確認されたと云う発表がなされています。昔の人は意外と、漢字にこだわらない傾向にあり読みが合っていれば問題はなかったようです。
勘助の最後は、武将として華々しい終わり方を選ばざるおえなかった。謙信に策を見破られ、裏をかかれては命を懸けて守ることしかなかったのでしょう。
霧が晴れたその時、上杉軍を見た勘助の脳裏には何が浮かんでいたのでしょうか。

武田二十四将

武田信玄公が、亡くなっても家臣団は勝頼の元に残っています戦国の世には珍しい事かもしれません。二十四将も年代的には同じではありませんから、全ての武将が長篠の戦いに参加出来た訳ではありません。

長篠の戦い

この戦いで討死した武将が多く、真田兄弟や土屋昌次、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景、甘利信泰など織田・徳川連合軍の鉄砲の数ではかなうはずはありません。近代戦の始まりに、古い戦い方では敵わない時代になった一つの時代の終わりだったように思います。

甘利虎泰、甘利信泰親子の子孫が衆議院議員自民党の甘利明代議士です。今は、政治に世界で戦っているアメリカとのTPP交渉では相手を圧倒していましたから先祖からの遺伝子は受け継がれていると云うことでしょうか。

武田の旗印

風林火山の旗と云えば、武田信玄公の旗印と多くの人がすぐに思いつくはずです。実際は、当時使用したという資料などなく使ってはいなかったとする説が正しいようです。
南朝方の北畠顕家が、使用していた旗を参考に作られたのではないかと云われていたよです。けれども、使用した記録は無く後世の作り話しと言うところでしょうか。

信玄の本陣旗

南無諏方南宮法性上下大明神、 武田信玄公の本陣旗としていたのが諏訪権現を信仰していたことからこの旗印でした。日の丸も使用していた記録があり、源氏が使用していたこともあって源氏の系統の武将は使用することがよく有るようです。

武田の二十四将まとめとして

武田の二十四将の、一生をまとめるには筆不足ですが興味を持って頂けたら幸いです。
もし、よろしかったらひとりひとり詳しく調べてみてはいかがでしょうか。
戦国最強と云われた武田軍、その中の二十四将戦死者も多く勇猛果敢な武将達をまとめあげた武田信玄公の凄さもあらためて再確認出来るのではないでしょうか。

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