武家政権のパイオニア源頼朝。家系図からその源を探ります。

源氏で最初に思いつく人は誰か?という問いで出てくる答えは源頼朝でしょうか?清和源氏の家系図において最初に幕府を開いた人物だからでしょうが、しかし源頼朝一人の力で開幕は成しえません。先人の苦労と下地のおかげです。家系図をもとに開幕までの道のりを紹介します。

目次

  1. 源頼朝から家系図を遡ります。
  2. 清和天皇から源頼朝までの源氏の棟梁たち
  3. 源氏から受けるイメージ
  4. 清和源氏家系図の源、清和天皇
  5. 清和源氏家系図初代源経基
  6. 源頼朝までに至る源氏
  7. 関東へ 源氏家系図3、4代源頼信・頼義
  8. 鎌倉を拠点とした 源氏家系図4代源頼義
  9. 前九年の役、後三年の役
  10. 戦の恩賞無し 家系図5代源義家
  11. 朝廷の処遇に対し源義家がとった行動
  12. 源頼朝の旗揚げ
  13. 初戦の敗北とその後の源頼朝の行動
  14. 源頼朝による天下統一
  15. 源頼朝と清和源氏家系図まとめ

源頼朝から家系図を遡ります。

源頼朝から家系図を遡ると10代前は清和天皇になります。天皇の子、孫が皇室から離れるときは姓を賜ります。「源」(みなもと)、「平」(たいら)を名乗ることが多いようです。源頼朝は、清和天皇の流れから皇室を離れ「源」を名乗ったので「清和源氏」(せいわげんじ)と呼ばれています。以下に清和源氏家系図を用意しました。

清和天皇から源頼朝までの源氏の棟梁たち

家系図より源頼朝から清和天皇までをたどりました。
清和天皇(850-881)
貞純親王(873?-916)
源経基(?-961)臣籍降下 源姓賜る。初代清和源氏。
源満仲(912-997)  第2代
源頼信(968-1048) 第3代
源頼義(988-1075) 第4代
源義家(1039-1106) 第5代
源義親(?-1108?) 第6代
源為義(1096-1156) 第7代
源義朝(1123-1160) 第8代
源頼朝(1147-1199) 第9代

源氏から受けるイメージ

源氏、取り分け清和源氏と聞いて何を思い浮かべますか?色々な合戦での武勇伝より、武芸達者で武門を代表する一族である、武士の鑑であるなど家系図を見ると確かに武勇に優れた武者達がいます。源頼光・・・丹波国大江山での酒呑童子討伐、土蜘蛛退治等の伝説
源頼信・・・関東で起きた平忠常の乱の鎮圧
源頼義・・・弓の達人
源義家・・・前九年の役、後三年の役で武功をあげる
源頼政・・・鵺(ぬえ)を退治した
源為朝・・・剛弓で有名な武将
源義経・・・平氏を滅ぼす

清和源氏家系図の源、清和天皇

清和源氏家系図に最初に記載されるのが清和天皇です。
清和天皇は 第56代天皇です。文徳天皇の第4皇子であり文徳天皇の死後四日目に生まれました。三人の兄がいましたが、清和天皇の外祖父が藤原良房であることもあり、9歳で天皇に即位しました。しかし政治の実権は藤原良房が握っており、26歳の時9歳の第一皇子陽成天皇に譲位しました。

清和源氏家系図初代源経基

清和源氏家系図で清和天皇から数えて三番目に記載されるのが源経基です。
承平8年(938年)武蔵介に任命され、武蔵に赴任早々有力豪族たちに貢物(賄賂)を要求し、豪族が貢物を出さなかったので、豪族宅に押し入り略奪行為をしました。
豪族支援に平将門(?-940)が駆けつけ、源経基と豪族たちの和解の宴を催そうとしたところ、源経基が偶然将門の兵に囲まれ、討ち取られると勘違いした経基が京に逃げ帰り、将門達に謀反の企てあると朝廷に誣告しました。
その後、平将門が謀反は事実無根であるとの申し開きが認められ、源経基は讒言の罪を受けることになりました。
その1年後平将門が国府を襲った反乱「平将門の乱」が起きたため、以前の誣告が現実となった事により罪が解かれました。

源経基は臣籍降下(天皇の子、孫が皇室から離れること。皇室財政圧縮のためでもある)し、源姓を賜った初代清和源氏です。
でも、初代清和源氏はまだ勇猛果敢な武者には程遠いものがありました。

源頼朝までに至る源氏

初期の源氏は朝廷の警護、その後藤原摂関家に仕え、官職に就くなどして財を得ました。
源氏は勇猛な武者たちがいますが、反面狼藉、強奪、凶悪犯を匿う、源氏同士の勢力争いなどして不祥事が多く、度々朝廷から罰を受けています。
そのため、平治の乱(1160年)のころは都での昇進で、平氏に後れを取りました。

関東へ 源氏家系図3、4代源頼信・頼義

長元元年(1028年)関東において平忠常の乱がおき、源頼信・頼義父子は忠常を討伐すべく出陣しました。
忠常は武勇に優れた源頼信・頼義父子が討伐軍に加わったのを知り直ちに降伏しました。
平直方(桓武平氏の嫡流)は、源頼信・頼義父子の前に平忠常の乱の鎮圧を任されましたが鎮圧できず任を降ろされ、頼義の武勇に大いに感じ入り「娘の婿になっていただきたい」と自分の娘を頼義に嫁がせました。
鎌倉にあった自分の邸宅、所領、郎党を頼義に譲りました。

鎌倉を拠点とした 源氏家系図4代源頼義

この時から清和源氏(源頼信系の河内源氏)は東国に拠点を持ちました。
頼義と平直方の娘との間に、源義家(八幡太郎義家)、源義綱(賀茂次郎義綱)、源義光(新羅三郎義光)が生まれました。
平直方は鎌倉幕府執権北条氏の祖先です。この150年後に源頼朝が北条政子を娶り、幕府を開き北条氏が執権職に就き武家社会を作っていきました。
何か因縁を感じますね。

前九年の役、後三年の役

<前九年の役>
永承六年(1051年)奥州の豪族安部氏が反乱を起こし、国司の命令に従わず、税も収めないようになりました。
陸奥国の国司が安部氏を討伐するべく数千の兵を率いて攻めましたが、かえって負けてしまいました。
朝廷は、源頼義を安部氏討伐軍の将軍にして安部氏を討たせることに決めました。
当初、安部氏は源頼義が武勇に優れていることを知り戦を避けていましたが、あるきっかけで戦になりました。
戦は長期化し、奥州の豪族清原氏の助けを借りて康平五年(1062年)戦に勝つことができ、安部氏は滅びました。

<後三年の役>
前九年の役後、安部氏にかわって清原氏が奥州にて大きな勢力を奮うようになりました。前九年の役から20年ほどたったころ、この清原氏に内輪もめが起こりました。
源義家は清原氏の一方を助け、5年程かけてやっとこの争いを寛治元年(1087年)に鎮めました。長い戦いでした。

戦の恩賞無し 家系図5代源義家

後三年の役後、源義家は朝廷に後三年の役による内紛を沈めたことへの恩賞を求めました。
しかし、朝廷は、この争いは清原氏の内輪もめであり、国家に反逆したものを鎮圧したものではないため恩賞を出すに値しないとしました。
朝廷が義家に恩賞を出さない理由
・清原氏が安部氏のように国の命令に反する行為はしていなかったため。
・なので朝廷はそもそも清原氏討伐の命令は出していない。
・後三年の役中、朝廷は義家に停戦命令を出したが、義家は従はなかった。
・以上で、後三年の役そのものを義家による私的な戦であると判断した。
表向きはそのような利用が考えられます。

しかし、朝廷の思惑(当時は白河天皇1053-1129)も考えられます。
・既に武士、とりわけ源氏の実力が強大化しつつあった。
・武士である新興勢力の中心に源義家がいて、朝廷は源義家を危険視していた。
・源義家は既に全国に多くの荘園を所有しており、さらに荘園が寄進されつつあった。

朝廷は今まで配下であった武士という勢力に、生命及び財産を守らせてきたが、その武士と立場逆転、自らの存在基盤が危うくなるのではないか恐れていたと考えられます。

朝廷の危惧は、その100年後源頼朝の鎌倉幕府成立によって現実化しました。

朝廷の処遇に対し源義家がとった行動

後三年の役後源義家は何の恩賞も受けられませんでした。
しかし、彼は武士という勢力の中心、棟梁という立場にありました。
源義家がとった行動は、
彼の下で、彼に従って戦地に赴いた、戦ってくれた部下ともいうべき武士たちに、源義家自身の荘園領地を恩賞として分け与えました。
源義家から恩賞(領地)をもらった武士たちは、源義家を大変感謝しました。
当時武士たちは始終、隣接する武士から領地をめぐるいさかいに悩まされいました。
それが領地がもらえるというのです。

それで、源義家様に何かあったら、源氏の棟梁に何かが起きたらはせ参じ助けようという、後鎌倉時代になって「いざ鎌倉」の精神が生まれましたが、その基礎を作ったのが源義家のこの行動なのです。

源頼朝の旗揚げ

源頼朝は、平治の乱(1160年)による戦に敗れ、敵の大将である平清盛に捕らえられました。
平清盛は当初源頼朝の処刑を考えていましたが、池禅尼(平清盛の継母)の嘆願により処刑を免れ、蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市)に流罪となりました。
長い流人生活を送っていたところ、あるとき以仁王による「平氏打倒の令旨」を受け取り、全国の源氏に呼応して源頼朝も平氏打倒の旗揚げをしました。

初戦の敗北とその後の源頼朝の行動

源頼朝は舅である北条時政(1138-1215)の協力を得て挙兵し、石橋山の戦いで大敗し船で安房国へ落ち延びました。
再起を図るべく頼朝が取った行動は、本領を安堵することを関東武士に向けて確約したことです。
これは効き目がありました。源氏の御曹司とはいえ、昨日まで流人の身分です。ただ旗揚げしただけでは付いてきません。
関東武士たちは頼朝の行動に源氏の棟梁4代前の源義家をダブらせたに違いありません。その後関東武士たちは続々頼朝に従い、平氏打倒に向け主従の関係を結ぶこととなりました。
源氏の棟梁が俺たちの所領を安堵してくれる。源義家様に受けた恩を返そう。

平氏打倒する原動力が生まれたわけです。

源頼朝による天下統一

源頼朝は、弟源義経の戦場での目覚ましい活躍により、源平の戦いを制し平氏打倒に成功しました。
その後、源頼朝と源義経はいろいろな行き違いがあって、関係が悪化しました。
皆様もよくご承知のことだと思います。
源義経を討ち果たし、源義経を匿っていた奥州藤原氏をも滅ぼしました。

源頼朝と清和源氏家系図まとめ

源頼朝は源氏の棟梁として最初の征夷大将軍に任命され、鎌倉の地に幕府を開きました。
しかし、源頼朝一人で鎌倉幕府開幕までこぎつけることは困難であったのでないでしょうか。
清和源氏家系図において、源頼朝は勿論ですが、それ以外にキーマンがいます。
その一人は源頼義です。
源頼義が鎌倉の地に東国の拠点をもったこと。源頼朝父源義朝も少年期鎌倉の地で過ごしました。
鎌倉は、鎌倉幕府を開く100年も前から源氏にとってゆかりの地でした。
決して源頼朝が思い付きで政の地に決めたのではありません。

もう一人は源義家です。
彼が後三年の役の苦渋の思い、身を削って部下ともいえる武士たちに所領を分け与えたこと、それによって源氏の棟梁と武士たちの強い絆が生まれ、またその恩を武士たちが忘れなかったこと。

これらの要素が加わらなかったら源頼朝の鎌倉幕府開幕はあり得なかったでしょう。

源義家は、武士による政権を夢見ていたかもしれません。それが果たせず、都での出世もままならず悔しい思いをしたに違いありません。武士達の中で「神様」的に崇められている源義家こそが鎌倉時代から始まる武家政権の礎を作ったともいえるでしょう。
後年、松平元康が尊敬する源義家から「家」の字をもらって「徳川家康」と改名しました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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