武田信玄家臣団「武田二十四将」の逸話を厳選してご紹介

武田信玄に仕えた家臣のうちでも講談や軍記の中で一般的な評価が高い「武田二十四将」。武田信玄の信頼の厚い二十四将の中からこれと思う4名の家臣を厳選して簡単にご紹介します。

目次

  1. 最強の騎馬隊を率いた家臣 山縣昌景
  2. 滅亡のキーマンになった家臣 穴山信君
  3. 武田信玄に愛された男 高坂昌信
  4. 武田信玄のアニキ的家臣 馬場信春
  5. まだまだいる武田信玄の名将たち
  6. 終活の専門家に相談してみよう

最強の騎馬隊を率いた家臣 山縣昌景

「戦国最強の騎馬隊」と言われ、あの織田信長でさえも長篠の戦いで馬防柵や鉄砲の導入など騎馬隊への対策を行いました。
その武田信玄が保有する騎馬隊の中でもさらに強い部隊があります。「赤揃え」こと山縣隊です。
この山縣隊を率いる武将は武田二十四将はもとより武田四天王のひとりでもある山縣昌景は自身の部隊の軍装を赤一色に統一し、編成したため山縣隊の代名詞は「赤揃え」となっています。
赤色の軍装は足軽、騎兵だけでなく騎乗する馬に装備させる鞍や馬鎧までも赤に揃えるという徹底ぶりで、誰がどこから見ても「赤揃え(山縣隊)だ」とわかるようになっていました。
山縣隊があまりにも強すぎたため、「赤揃え」が最強部隊の代名詞となり諸大名たちは畏怖しました。

また、実際に武田家と戦をして敗戦した者たちの中には「赤揃え」の軍装を目にしただけで足軽たちが逃亡し、勇猛な将でさえも震え上がってしまい、ついに一戦も交えることなく投降したという逸話があります。
山縣昌景の死後も「赤揃え」は徳川家康の重臣・井伊直政や真田幸村らも赤備えを採用しているので、その強さがいかに畏敬されていたかがわかります。

滅亡のキーマンになった家臣 穴山信君

川中島の戦いで武田信玄の本陣を守っていた穴山信君は、武田信玄の姉の息子にあたる武将です。
武田信玄は自身の娘を穴山信君に嫁がせているので、穴山家とは親子2代に渡る強い姻戚関係で結ばれていましたが、武田氏滅亡のキーマンは彼だという話があります。
その根拠となるのが、武田信玄の息子の勝頼が彼の嫡男に娘を嫁がせる約束を破って武田信豊の子に娶らせたことに激怒し、徳川家康に寝返ったと言われています。それ以前にも勝頼が寵愛していて家臣たちのことを憎んで織田信長と内通しているので、もともと武田氏から離反するつもりがあったのではないかと思います。

織田軍と同盟軍が虫の息の武田氏の威勢をさらに削ぐために行った甲斐侵攻の際には、甲府に捕らわれていた人質たちを逃亡させ、甲斐一国の拝領と武田氏の名跡継承を条件に徳川家康の与力となりました。

武田信玄に愛された男 高坂昌信

高坂昌信はまたの名を春日信綱と言い、もともとは農民の子としてこの世に生を受けています。
高坂昌信は武田四天王にも数えられていますが、武田信玄が将来の幹部候補として召し抱え人材育成した使番十二人衆のひとりでもあります。男色家としても有名な武田信玄と衆道(同性愛)関係だったのが彼だと言われています。
彼が15歳のとき父親が死去し、遺産の相続を巡る裁判を姉夫婦との間で起こしましたが、敗訴になり身よりがないところを武田信玄が召し抱えたと言われています。

武田信玄は宿敵上杉謙信と川中島合戦を15回にもわたって繰り広げますが、その最前線で常に活躍したのが高坂昌信です。
第4次川中島合戦では侵攻してきた上杉謙信に対し、妻女山攻撃の別働隊として上杉謙信本陣を襲撃する戦功を挙げ、引き続き北信濃の治世にあたったそうです。その後も徳川家康VS武田信玄の三方ヶ原の戦いなど、武田氏の主だった戦いに参戦しました。
武田信玄の死後は、勝頼に疎まれてしまいますが二心抱くことなく仕え、政策の提案や敗走した家臣の処分について意見することもありました。上杉謙信の死後は上杉景勝との取次役を務めて、甲越同盟の締結に尽力して数年後に息を引き取ります。

武田信玄のアニキ的家臣 馬場信春

武田信玄の父である信虎の時代から武田家に仕える最古参の老臣で、武田四天王にも数えられる馬場信春。彼の出自は清和源氏支流で美濃源氏を祖とする武家の名門土岐氏の一族でしたが、信虎に父親を討ち取られてしまい、やむなく武田家に仕えます。
甲斐守護代を争う信虎と平賀源心の戦いである「海ノ口城攻」めに参加し、敵将・平賀源心を討つという功績を挙げたと言われています。武田信玄にとってはこの「海ノ口城攻め」が初陣だったので、馬場信春の功績が印象強かったのだと思われます。

武田信玄は信虎を追放し、武田氏の当主となりますがその際にも馬場信春が信虎追放計画に参加しています。
当主に就くやいなや諏訪・伊那(いずれも信濃国)攻めを開始すると馬場信春もこれに参加して数々の武功をたてたため、信虎時代に当主を討ち取られて名跡が途絶えた馬場氏を継ぐことを許されます。その後も信濃攻めの参加、川中島合戦では上杉軍の背後を攻撃する別働隊の指揮をするなどして譜代家老衆の一人に列せられます。
武田氏と北条氏が争った三増峠の戦いでは先鋒で活躍。西上作戦では、信玄から一隊の指揮を命ぜられて只来城を攻略しました。三方ヶ原の戦いでは徳川軍を浜松城下まで追い込む活躍を見せました。

武田信玄の駿河国侵攻で先鋒を任されていたときの逸話にこのようなものがあります。
今川氏が集めた金銀財宝、名品が焼失することを惜しみ財宝を運び出すように指示をだしたことを知ると、すぐに現場に急行し「貪欲な武将として後世の物笑いになる」として、周りの制止を振り切り財宝を再び火中に投げ込みました。
それを知った信玄は「さすが7歳年上だけある」と後世に名を惜しんだ信春の器量に恥じ入ったとされています。

まだまだいる武田信玄の名将たち

武田信玄

大河ドラマ「風林火山」の主人公になった山本勘介や武田信玄の弟信繁など武田家には優秀な人材がたくさんいました。今回の記事では表面化されていない家臣たちをあえて選ばせて頂きましたが、記事に書けなかった家臣たちのことを知りたいという方は「甲陽軍艦」や大河ドラマ「武田信玄」に登場するのでぜひ見てみてください。

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