幕末史における坂本龍馬を如何に評価すべきか。

坂本龍馬は幕末期の中でも世間的認知度が高い人物と言えるでしょう。「亀山社中をつくった」「薩長同盟や大政奉還に貢献した」と言われる坂本ですが、果たして妥当な評価と言えるのでしょうか?今回は坂本龍馬の内実に迫り、どのように評価すれば良いのか一緒に考えてみましょう!

目次

  1. 幕末史のなかの坂本龍馬
  2. 坂本龍馬の歴史的役割を考える
  3. 「龍馬ブーム」を考える
  4. どのように評価すれば良いのか
  5. 参考文献の紹介

幕末史のなかの坂本龍馬

坂本龍馬

坂本龍馬について考えてみよう!

私は以前に「大政奉還実現における坂本龍馬の活躍はどこまで見出せるのか。」という記事を書かせていただきました。今回は引き続き坂本龍馬について考えてみたいと思います。

坂本龍馬は小説やドラマの影響もあり、歴史上の人物の中でも極めて世間的認知度が高い人物と言えるのではないでしょうか。
小説やドラマと違った坂本の実態を追うことで、現在の研究段階で言える範囲の理解・評価につなげていこうというのが本記事の目的です。

一緒に坂本龍馬について考えてみましょう!

坂本龍馬についての概要

最初に、坂本龍馬の簡単な概要を見ておきましょう。
よくご存じの方は飛ばしていただいて構いません。

坂本龍馬は天保6年(1835)に土佐藩の郷士である坂本八平・幸の次男として誕生します。
嘉永6年(1853)に江戸へ剣術修行に向かいます。このときに、ペリー来航に遭遇しています。
文久元年(1861)に武市半平太の土佐勤王党に参加します。同2年(1862)2月には、武市の書簡を携えて、使者として長州藩の久坂玄瑞を訪ねています。その役目を果たして、帰国後の3月に土佐藩を脱藩します。

脱藩後の坂本は、松平慶永や勝海舟と出会い、勝海舟の門下として徳川家の海軍創設に尽力します。
その間に、勝海舟の取り計らいで脱藩の罪を赦されています。
しかし、文久3年(1863)に土佐藩では勤王党の弾圧が始まりました。坂本らは帰国の命令に従わずに、再び脱藩の身となってしまいます。また、勝海舟の江戸召喚が決まり、海軍操練所も閉鎖され、坂本ら土佐脱藩浪士は薩摩藩の庇護の下で活動することになります。

慶応元年(1865)に、坂本は薩長同盟に向けて動き出します。慶応2年(1866)1月には、小松帯刀・西郷吉之助(隆盛)と木戸準一郎(孝允)の薩長首脳会談において立会人を務め、万が一に徳川家が長州藩を攻めてきたときの対応策を取り交わしました。その翌日に、京都の伏見寺田屋にて奉行所の役人に取り囲まれますが、逃げ延びます。

慶応3年(1867)1月に、土佐藩参政の後藤象二郎と会談し、4月には脱藩の罪が許されて海援隊の隊長となります。6月には、薩土盟約の締結に立ち会います。
大政奉還後は「新政府綱領八策」を執筆するなど精力的に活動しますが、近江屋にて京都見廻組に襲撃されて死去します。

坂本龍馬の歴史的役割を考える

薩長同盟における役割は?

「坂本龍馬は薩長同盟に貢献した」
よく聞く坂本龍馬への評価の一つだと思います。しかし、薩摩藩と長州藩の連携には坂本以外にも多くの人が関わっていたことが忘れられてしまっています。
何故、坂本龍馬が薩長同盟成立過程で特に持ち上げられたのでしょうか?
史料上から言えることは、3点です。
1つ目は、小松帯刀・西郷吉之助と木戸準一郎の会談に立ち会ったこと。薩長の間で約束事が取り交わされた現場に坂本がいたことは、お互いの機密を知る人物として重要でした。
2つ目は、小松・西郷・木戸・坂本会談で取り交わされた約束の証明書(木戸の書簡)を承認したこと。
3つ目は、後に木戸孝允などが薩長同盟成立における坂本の役割を評価したことにあります。
後世の評価でも薩長同盟成立において坂本龍馬の評価は高く評価されてきました。

しかし、見逃してはならないことがあります。
それは、薩長同盟を成立させていく過程において坂本以外の土佐脱藩浪士なども大いに関わっているということです。特に中岡慎太郎や土方楠左衛門といった土佐脱藩浪士が薩長を結びつけるために活発に周旋活動を行なっています。さらには、薩摩藩・長州藩の要人のみならず、近年では筑前(福岡)藩の人々の薩長同盟に向けた動きも注目されつつあります。

坂本龍馬は薩長同盟の「終着点」において重要な役割を果たしたといえますが、そこに至るまでには多くの人物が関わっているということを強調しておきます。

大政奉還における役割は?

終活ラボでの記事「大政奉還実現における坂本龍馬の活躍はどこまで見出せるのか。」でも書かせていただきましたが、坂本自身は大政奉還運動においての直接的関与が見出せません。ただし、大政奉還に希望を持っていたことは確かです。
そんな大政奉還運動における坂本の役割をどう位置付けるかというのは、とても難しい問題です。
坂本の重要な役割は大政奉還実現後にあるように思います。

大政奉還後における役割は?

大政奉還後の坂本龍馬の役割、それはズバリ「新政府創設計画」にあります。
大政奉還が実現し、坂本は「新官制擬定書」(新政府の人事案)や「新政府綱領八策」(新政府の基本方針)を同志と共に練っています。坂本らが新政府創設に向けて動き出したのです。

慶応3年(1867)11月初旬、日本国家の経済を任せたい人物に越前藩の三岡八郎(由利公正)を推していた坂本は、福井に向かいます。
当時、幽閉中だった三岡ですが、監視役人同席のもとで坂本と会談します。
そこで、三岡は「恐れることは戦争が起きることで、予めその戦争に備えておかなければなりませんが、どうでしょうか?」と質問します。
大政奉還が実現したと言っても、薩長と徳川家や会津藩の間に軍事衝突があるかもしれないことを三岡は危惧していたのです。
坂本の回答は「不戦です」。
三岡は「戦争をこちらから仕掛けないことはすでに理解しています。
もし、向こう(徳川家や会津藩など)から仕掛けてきたらどのような策があるのでしょうか?」と重ねて質問します。
坂本は「それが一番難しいことです。朝廷には蓄えがなく、信任する兵力もありません。有志の面々が味方ですが、つまりは烏合の衆ですから力不足です。」と回答します。
坂本が戦争回避を望んでいたことは確かでしょう。

しかし、このままでは大なり小なり戦争は必ず起きると踏んでいました(「男爵安保清康自叙伝」より)。

そんな中で、坂本は将軍徳川慶喜の大政奉還を後押しした徳川家の永井尚志を訪ねるようになります。坂本は書簡にて永井の事を「ヒタ同心」(まったくの同心)と言い切るほど好感触で会談を進めたようです(「慶応3年11月11日林謙三宛て坂本龍馬書簡」)。
このときの具体的な会談内容はわかりません。
しかし、勝手な推測を許していただけるならば、状況を考えると坂本は徳川家の永井と直接に話をつけて戦争回避を行なおうとしていたと考えられます。

慶応3年11月15日、坂本は近江屋にて中岡慎太郎との会談中に京都見廻組に襲撃されて命を落とします。大政奉還後の亡くなる1か月間、坂本が目指したことは一体何だったのでしょうか?

「龍馬ブーム」を考える

ブームの変遷

坂本龍馬の死後、久しく坂本龍馬は歴史に埋もれた存在でした。
そんな坂本龍馬を「再発見」した人物がいます。坂崎紫瀾です。
坂崎は、土佐出身で愛国公党に入党するなど自由民権運動を行なっていました。
自由民権運動が展開される中で、明治16年(1883)に坂崎は『土陽新聞』にて坂本龍馬を主人公とした「汗血千里駒」を連載するようになります。このときから、坂本に対する世間的認知度が高まっていきます。

明治37年(1904)~明治38年(1905)の日露戦争期には、日本海海戦の直前に皇后の夢枕に坂本龍馬が立ったということで注目されました。このことは新聞で報じられ、2度目の龍馬ブームを起こしました。

大正期においても龍馬ブームが起きています。坂本龍馬がつくったとされていた「船中八策」(「船中八策」は実在が否定されています。詳しくは知野文哉『「坂本龍馬」の誕生―船中八策と坂崎紫瀾』をご覧ください)において「公議に決すべき」とする文言が当時のデモクラシー(民主主義)的風潮に合致したのです。

昭和戦後期に入り、現代の坂本龍馬像を構築したと言っても過言ではない小説が登場します。司馬遼太郎『竜馬がゆく』です。「明るい龍馬」を印象付けたこの作品は、多くの日本人の心をとらえました。

時代を彩る評価

「汗血千里駒」による第一次龍馬ブームで初めて坂本龍馬は世間に注目されるようになりましたが、著者である坂崎紫瀾にはどうやら目的があったようです。
それは、土佐藩の立場を再確認させたかったということ。
当時の政府においては、薩摩・長州出身者に比べて土佐出身者の立場が弱く、加えて自由民権運動における土佐派の活躍を何とか喧伝したかったのです。
そこで、坂崎は坂本龍馬を「再発見」し、坂本を「自由民権運動の先駆者」として一つのシンボルをつくろうとしました。
日露戦争による第二次龍馬ブームでは、日本海軍がバルチック艦隊と戦う日本海海戦の直前に皇后の夢枕に立ったということで、坂本を「日本海軍の先駆者」として喧伝されました。
大正デモクラシー期の第三次龍馬ブームでは、「デモクラシーの先駆者」として位置づけられました。
昭和戦後期の第四次龍馬ブームは、政治的色彩よりも「明るい龍馬」「闊達な龍馬」を印象付け、多くの日本人に受け入れられました。

現代の評価

さて、現代における坂本龍馬評価をどのようなものでしょうか?
やはり司馬遼太郎『竜馬がゆく』の影響は大きいでしょう。
しかし、現在の歴史学研究では坂本龍馬の評価は相対的に低下しています。
それは、ただ単に坂本の役割を否定するというものではなく、幕末史のなかで活躍したあらゆる人物や事件に光が当てられつつあるということです。
さらに、従来は実証されてこなかったことに関しても切り込まれつつあります。
「船中八策」の虚構が実証されたことも最新の研究成果の一つです。

どのように評価すれば良いのか

新発見の坂本龍馬書簡

2017年1月13日に新発見の坂本龍馬書簡についての報道がありました。
「慶応3年11月10日中根雪江宛て坂本龍馬書簡」です。亡くなる5日前の書簡であり、「新国家」という文言や三岡八郎の登用についての記述が注目を集めています。
その他にも注目したい箇所があります。追伸です。「大政奉還後の役割は?」でも述べたように、この頃は永井尚志と会談を行なっていますが、この新発見書簡の追伸部分で永井を訪ねたが面会が叶わず、明日に再訪したい旨が記されています。坂本は永井と「談したき天下の議論」が沢山あると言っています。大政奉還後の坂本龍馬の役割を考えるうえでも重要な新発見です。

坂本龍馬の役割を「直視」する

薩長同盟形成過程では坂本だけでなく多くの人物が関わり、大政奉還運動では坂本自身の直接的な関与が見出せません。一方で大政奉還後は短い間でしたが、新政府創設に向けてひたすらに尽力している様子が見えてきます。新発見の坂本龍馬書簡からも、そのことが垣間見えます。坂本の最大の役割は、大政奉還後の亡くなる1か月にあるように思います。

おわりに

以上、見てきましたが如何でしたか?
坂本だけではないですが、歴史上の人物が一体何をしたのか、その役割を「直視」することで過大・過小評価しないバランスのとれた評価をするべきだと思います。そのためにも、実際に文献史料などにあたってみて自分の目でしっかり確かめるということを大事にしてもらいたいです。

参考文献の紹介

坂本龍馬について

「大政奉還実現における坂本龍馬の活躍はどこまで見出せるのか。」でもご紹介いたしましたが、改めて坂本龍馬を知るための参考文献を挙げておきます。良かったら、読んで見てくださいね!

池田敬正『坂本龍馬』(中央公論新社、1965年)
飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社、2002年)
松浦玲『坂本龍馬』(岩波書店、2008年)
知野文哉『「坂本龍馬」の誕生―船中八策と坂崎紫瀾』(人文書院、2013年)
宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社、2003年)
平尾道雄『坂本龍馬全集』(光風社書店、1978年)

幕末史全般

幕末史全体を通してオススメしたい参考文献をご紹介いたします!

宮地正人『幕末維新変革史(上)』(岩波書店、2012年)
宮地正人『幕末維新変革史(下)』(岩波書店、2012年)
家近良樹『江戸幕府崩壊』(講談社、2014年)

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