
松尾芭蕉のお墓はどこにある?詳しいお墓の場所やアクセスもご紹介!
松尾芭蕉は誰もが知る江戸時代の俳人ですが、日本各地を旅し数々の有名な俳句を生み出しました。松尾芭蕉は大阪で最期を迎えたわけですが、どこにお墓があるのか気になるところですよね。この記事では松尾芭蕉のお墓の場所や源義仲との関係などについて解説をいたします。
最終更新日: 2019年10月31日
松尾芭蕉のお墓について

松尾芭蕉は多くの人が耳にしたことのある有名な俳人ですよね。
松尾芭蕉の俳句を聞いたことがある人もいるかもしれません。
そんな松尾芭蕉のお墓がどこにあるかご存知ですか?
松尾芭蕉については知っているけどお墓については知らないという方も多いかと思います。
そこで今回「終活ねっと」では松尾芭蕉のお墓についてご紹介していきます。
本記事の具体的な内容は以下の通りです。
松尾芭蕉はどんな人?
松尾芭蕉の生涯について紹介します。松尾芭蕉の有名な俳句についてもいくつかご紹介します。
松尾芭蕉のお墓はどこにある?
松尾芭蕉が眠っているお墓の場所について特徴やアクセスもご紹介します。
松尾芭蕉と源義仲(木曽義仲)の関係は?
生まれた年代が全く違う松尾芭蕉と源義仲ですがこの二人には意外と知らない繋がりがあります。二人の関係についてご紹介します。
松尾芭蕉のお墓だけでなく、彼の生涯などについてもご紹介しています。
ぜひ最後までご覧ください。
松尾芭蕉とはどんな人?

松尾芭蕉は江戸時代前期から中期にかけて活躍した俳人で、「俳聖」として崇められました。
芭蕉はそれまでの解放的で遊戯的な談林風の俳諧を芸術的地位まで高めました。
「野ざらし紀行」や「奥の細道」などの旅をすることにより、わびやさび・かるみ・ほそみなどの手法を使い、いわゆる「蕉風」の俳諧を確立しました。
松尾芭蕉の生涯
まず最初に、松尾芭蕉の生涯を紹介していきます。
松尾芭蕉は、寛永21年(1644年)伊賀に生まれ、藤堂家に仕えました。
その後、京都の北村季吟の下で俳句を学んだとされています。
北村季吟より、俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授を受けたのを機に30歳で江戸に下り、談林派の西山宗因の影響を受けました。
33歳で談林派江戸宗匠となりましたが、松尾芭蕉は談林派の諧謔から芸術性の高い句風を目指し、深川に隠棲し芭蕉庵を結びました。
その後「野ざらし紀行」「奥の細道」の旅をし、各地で名句を作りました。
元禄7年(1694年日)大阪で病に倒れ、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して51才で死去しました。
松尾芭蕉の有名な俳句
松尾芭蕉は幾多の俳句を遺していますが、その中から松尾芭蕉の有名な俳句を何点か選んでご紹介いたします。
以下は奥の細道に掲載されている松尾芭蕉の代表的な句です。
行く春や 鳥啼き魚の 目は泪
奥の細道の最初の一句で、見送りの人と別れ旅が始まります。
「春は去り行こうとしているが、別れを惜しんで鳥は鳴き、魚の目は涙でいっぱいのようだ」という意味が込められています。夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
藤原氏の居城があった平泉で、藤原氏や義経の栄華の儚さを思い詠んだ句です。
松尾芭蕉が眠る場所とも関係があるとされています。
「戦いがあったこの場所に来てみると、藤原氏や義経などの栄華のあともなく、夏草が繁っている」という意味です。閑(しずけ)さや 岩にしみ入る 蝉の声
出羽国の立石寺に参詣したときに詠んだ句です。
「周りはなんの音もなく静まり返っているが、セミの声だけが岩にしみいるように聞こえる」という意味が込められています。五月雨(さみだれ)を あつめて早し 最上川
大河最上川の急流に遭遇して詠んだ句です。
「梅雨が激しく降り最上川に集まり、すさまじい勢いで流れている」という意味が込められています。荒海や 佐渡によこたふ 天の河
越後の出雲崎で詠んだ句となっています。
「荒海の遥か向こうに佐渡島がみえるが、見上げれば天の川が雄大に横たわっている」という意味が込められています。
松尾芭蕉の俳句には奥の細道に掲載されているものの他にも次のような名句があります。
古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音
芭蕉が「蕉風」を確立したと言われる有名な句です。
「静寂を破って突然古池にカエルが飛び込んだ、しかしすぐにもとの静けさになった」という意味が込められています。名月や 池をめぐりて 夜もすがら
芭蕉庵にて月見の会を開き詠んだ句といわれています。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
この句は辞世の句とされていますが、「病中吟」という前書があり辞世の句ではないという説もあります。
松尾芭蕉のお墓はどこにある?

ここまで松尾芭蕉の人物像について見てきました。
では、松尾芭蕉のお墓はどこにあるのでしょうか?
ここでは、松尾芭蕉が眠るお墓がどこにあるのか、お墓があるお寺の特徴やアクセスなどを紹介していきます。
義仲寺
松尾芭蕉の墓がある場所として最も有名なのは義仲寺です。
義仲寺は琵琶湖から近い滋賀県大津市にあります。
義仲寺の由来
義仲寺の由来は平安時代の武将である源義仲にあります。
源義仲は平家討伐のため挙兵し京都に入りましたが、源頼朝・義経に追討を受けました。
宇治から北に逃れる途中、景勝のこの地で31才の若さえ非業の死を遂げます。
その後、源義仲を憐れんだ大津の村人たちが、墓を建て弔ったとされています。
村人たちがお墓を建てたのち、一人の尼が墓前に草庵を結び、弔い始めます。
村人が名前を聞くと「名は捨てました」と答え、その尼が愛妾であった巴御前であることを知り、巴御前が死んだ後に、村人は草庵を「無名庵」と呼ぶようになったそうです。
義仲寺は源義仲を弔うために巴御前が草庵を結んだのがその始まりで、巴御前もこの地に眠っています。
時代を経て「巴寺」・「木曽寺」となり、室町時代末期の近江守護であった佐々木六角によって「義仲寺」に再興されたと言われています。
義仲寺の特徴
義仲寺の特徴として、わび・さびを感じられる静かで情緒ある雰囲気を味わうことができることが挙げられます。
境内には朝日堂や・翁堂・無名庵などのお堂や句碑も多くあり、1967年に国の史跡に指定されました。
朝日堂は義仲寺の本堂であり、ご本尊は義仲公で、芭蕉や今井兼平など31の位牌を安置しています。
翁堂には正面の祭壇に芭蕉座像が配置され、天井には伊藤若冲の天井図『四季花卉図』が描かれています。
山門右手には巴地蔵堂があり、義仲の墓の左側には巴御前の供養塚があります。
アクセス
義仲寺に行くためのアクセスは以下の通りです。

access_time3月1日~10月31日 9:00~17:00
11月1日~2月28日 9:00~16:00
定休日:月曜日(祝日除く)
大人300円、中学生150円、小学生100円
place 滋賀県大津市馬場1-5-12
公共交通機関:JR琵琶湖線 「膳所駅」 下車 徒歩 10分
京阪電鉄/石山坂本線 「京阪膳所駅」 下車 徒歩 10分
自動車:名神大津ICから5分
その他:寺院駐車場なし
お問い合わせ:077-523-2811(義仲寺)
義仲寺以外の松尾芭蕉のお墓
松尾芭蕉のお墓は、義仲寺以外の場所にもあります。
特に松尾芭蕉が亡くなった場所である大阪には、松尾芭蕉のお墓が複数あります。
義仲寺以外の松尾芭蕉のお墓があるお寺の場所や特徴をご紹介いたします。
円成院
円成院は、時宗の寺院で、松尾芭蕉の他に植村文楽軒などが祀られています。
芭蕉十哲の一人とされる志太野坡が、松尾芭蕉が大阪で亡くなったのにお墓がないのは寂しいと思い、41回忌の亨保20年建立しました。
天明3年に傷みが激しいのため、現在の場所に再建し、芭蕉の木像を奉納しました。
境内には辞世の句とされる「旅に病んで夢は枯野をかけまわる」の句碑を建てました。
しかし、墓石の劣化が激しく、今は墓碑を読むことはできません。
浄春寺
浄春寺の歴史は古く、平安時代の新古今和歌集の撰者である藤原家隆が晩年庵を結び、その後、墓所であったものを寺にしたとされています。
藤原家隆の歌を愛した松尾芭蕉の遺髪を埋めて作った反故塚があります。
梅旧禅院
梅旧禅院は曹洞宗のお寺で、境内には芭蕉堂が建てられ、堂内には芭蕉像が置かれています。
この芭蕉像はもともとは志太野坡が円成院に寄贈したものですが、粗略に扱われたので不二庵二柳が怒り、梅旧禅院にお堂を建て安置したとされています。
また、松尾芭蕉が死亡した際に、梅旧禅院の住職がお経を読んだと言われています。
「終活ねっと」では有名人のお墓に関する様々な記事を紹介しています。
有名人の墓について詳しく知りたい方は以下の記事で、有名人が多く眠る多磨霊園について紹介しているので、ぜひあわせてご覧ください。
松尾芭蕉と源義仲

平安時代の英雄であった源義仲もまた松尾芭蕉と同じく義仲寺に並ぶように眠っています。
活躍した時期が全く異なる二人が隣り合わせるように眠っているのは不思議ですよね。
ここでは松尾芭蕉と源義仲について紹介します。
二人が同じお寺で眠る背景や理由にも触れていきます。
松尾芭蕉と源義仲は同じお寺に眠っている
松尾芭蕉と源義仲は同じお寺に眠ってることで有名です。
松尾芭蕉のお墓は、大津市内の旧東海道に沿った義仲寺に源義仲のお墓に隣り合わせるようにあります。
源義仲のとなりに埋葬して欲しいと言う松尾芭蕉の遺言にしたがって、義仲寺に葬られました。
松尾芭蕉は亡くなった夜に弟子の手で淀川を川舟にのせられ、義仲寺に到着し多くの弟子に見守られる中を埋葬されました。
境内には松尾芭蕉が詠んだ数々の句碑が建てられ、墓のそばには松尾芭蕉の弟子の又玄が詠んだ言われる「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」の碑があります。
なお、松尾芭蕉の遺髪は、芭蕉家の菩提寺である伊賀の愛染寺に埋め、碑を建て「故郷塚」と称しました。
なぜ一緒のお寺に眠っているの?
義仲寺を世に知らしめたのは松尾芭蕉で、旅の途中に何度も義仲寺を訪れこの地に滞在しています。
また境内にある無名庵で、句会も行っています。
松尾芭蕉は源義仲にちなむ俳句を詠んでいます。
奥の細道では「義仲の寝覚めの山か月悲し」、源義仲の墓の前では「木曾の情雪や生えぬく春の草」と詠んでいます。
また、松尾芭蕉は死んだら源義仲と同じお寺に葬って欲しいと遺言を残していました。
源義仲は松尾芭蕉の時代より500年も前の平安時代の人です。
活躍した時期も全く違う二人が、なぜ一緒のお寺に眠っているのでしょうか?
松尾芭蕉が源義仲と同じお墓に眠る理由について紹介していきます。
源義仲の優しさに敬意を抱いた
一つ目の理由は、松尾芭蕉が源義仲の優しさに敬意を抱いたためです。
源義仲は乱暴者として貴族などからは卑下されていました。
源義仲は宇治川の戦いで負け、巴御前は一緒に討ち死にをしようとします。
しかし、死期を悟った義仲は、それまで共に行動していた巴御膳を女だからと逃げ延びるよう諭します。
芭蕉は強い面をもちながら、このように優しさを合わせ持つ悲運の武将に敬意を抱いたのかもしれません。
巴御前と源義仲の悲しい死に別れと、やさしい一面に感じ入っていたのでしょう。
源義仲の忠義に憧れた
二つ目の理由は松尾芭蕉が源義仲の忠義に憧れたためです。
源義仲に最後まで付き従った今井兼平は、源義仲が1歳の時に預けられた乳母の家の子でした。
仲の良い兄弟のように育てられた二人は、「死ぬ時は一緒」と誓い合っていました。
宇治川の戦いで追い詰められた源義仲と今井兼平は、お互いの身を案じつつ再会し喜び合ったそうです。
しかし、源義仲は今井兼平に振り向いたときに敵に打ち取られ、それを見て今井兼平も自害したと言われています。
また、奥の細道でも最後まで源義仲にしたがった佐藤継信・忠信兄弟を悼み「笈も太刀も五月にかざれ帋幟」と詠んでいます。
このように松尾芭蕉は主従の忠義に感じ、悲劇的なヒーローに憧れたのかもしれません。
松尾芭蕉のお墓まとめ

今回「終活ねっと」では松尾芭蕉のお墓について見てきましたが、いかがでしたか?
この記事の内容をまとめると以下になります。
松尾芭蕉はどんな人?
松尾芭蕉は伊賀に生まれ江戸で有名になった俳人です。松尾芭蕉の有名な俳句として、奥の細道や野ざらし紀行などがあります。
松尾芭蕉のお墓はどこにある?
松尾芭蕉のお墓がある最も有名な場所は義仲寺です。義仲寺は国指定の史跡で、滋賀県大津市にあり、琵琶湖とも近いです。義仲寺の他に、松尾芭蕉が死去した大阪にもいくつかお墓があります。
松尾芭蕉と源義仲
松尾芭蕉のお墓は源義仲と隣り合わせにあります。松尾芭蕉が源義仲と同じお寺に埋葬された理由は松尾芭蕉が源義仲を尊敬していたことにあります。松尾芭蕉は特に、源義仲のやさしさと主従の忠義に感じ入っていたのだと考えられます。
俳句の好きな人は終活の一環として義仲寺を訪れ、松尾芭蕉と源義仲の墓前に手を合わせるのも良いでしょう。
以下の記事ではお墓参りのマナーについて紹介しています。
有名人のお墓参りをする際にも役立つ情報が載っているので、ぜひ参考にしてみてください。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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