墓地・霊園の歴史について

現在の日本ではお葬式を挙げる時はそのほとんどが仏式で、葬儀が終わると遺骨は墓地・霊園に墓石を建ててそこに埋葬されます。
さて私たちがこのような埋葬を行うようになったのはいつの頃からで、それ以前はどのような埋葬が行われていたのか興味はありませんか。
日本は有史以前から現在まで、世界でもまれにみる長い歴史を持つ国です。
実際に日本の天皇家は、6世紀半に実在が確認されている継体天皇から数えても、現在まで存続する世界最古の王族で、一つの国として存続している国としても最古なのです。
日本に仏教が伝来したのは6世紀中頃で、日本最古の歴史書の一つである『日本書紀』によれば欽明天皇の在位中に朝鮮から仏像や仏典の伝来があったという記述があり、それ以降仏教に関する記述が古書に多く散在することとなります。
こうして見ても、古代日本の葬儀は仏式以外の埋葬の仕方があることが予想されます。
今回は終活のテーマとしてはかなり壮大なテーマとなりますが、私たち日本人がどのような変遷を経て現在のように墓地・霊園に遺骨を埋葬するようになったのかを、長い歴史を追いながら紐解いていきたいと思います。
この記事では古代から順に墓地・霊園の形態を振り返っていきます。
- 古代の墓地・霊園はどのようなもので、死者をどのように埋葬していたのか。
- 中世の墓地・霊園はどのようなものだったのか。
- 近世の墓地・霊園はどのような展開を見せるのか。
- 近代の墓地・霊園はどのような様変わりをしたのか。
- 現代の墓地・霊園事情について。
古代の墓地・霊園の歴史

さて、歴史には歴史書に書かれている有史の時代と、歴史書がまだ存在しない有史以前の時代があります。
歴史書というものは、基本的には支配階級の有識者によって書かれたものなので、特に古代の歴史書では一般庶民のことに関して詳しく書かれているものはあまり多くありません。
有史以前の民俗学に関しては考古学の分野になるので、まずは考古学上で現在分かっている日本人の死者の埋葬方法を解説していきたいと思います。
遺棄葬の時代
縄文時代や弥生時代の集落の遺跡が度々発掘され、その時代の人々の生活が考古学のおかげでだいぶ分かってきました。
日本でもそうですが、有史以前のまだ宗教観が希薄だった時代の世界の人々は、人が死ぬと自分たちの生活圏外にその遺骸を捨てるのが一般的でした。
その際は特に穴などを掘ったりせず、特定の一カ所に放置する形がとられ、遺体はやがて風化して朽ち果てたり、あるいは鳥獣にその遺骸が食べられたりするので、自然と遺体が処理されるのです。
遺棄葬には風化を目的として風葬、鳥獣に食べられることを目的とした鳥葬、河や海へ捨てる水葬、船を棺桶代わりとして川や海へ捨てる舟葬などがあり、インドでガンジス河に遺体を捨てることが神聖なこととして崇めるように、現在でも遺棄葬を行う地域が世界各国に残っています。
日本でもこの遺棄葬は1000年くらい前まで普通に行われており、実際に平安時代の絵巻物を見ても、一般庶民の遺体は道端に放置されたままであるとか、川などに捨てている様が描かれています。
土葬の開始
縄文時代になると自分たちの集落で生じたごみの捨て場所として貝塚などが作られ、その貝塚に遺体を埋葬する区域が設けられるようになりました。
またこの時代には特定の地域に穴を掘って副葬品と共に埋めたり、土器や石で作った棺桶に遺体を入れて埋めたりしていました。
日本の場合、この時代の大抵の死体は屈折させて埋めてあり、死者が生き返らないようにという呪術的な意味合いがあったと考えられています。
また日本の神道が「ハレ」「ケ」「ケガレ」と神域、生の世界、死の世界を区別するように、古代の人々も自分たちが生活する生の世界と、死者が住む世界を区別するようになっているなど独自の宗教観が芽生えていたと考えられます。
古墳時代
さて紀元3世紀頃、それまで部族社会であった日本で各地に小さな王国が作られるようになり、ヤマト王権が小国を統一する動きが始まります。
この時代は朝鮮を通じて様々な技術が日本に伝わり、農産物などの生産力が向上して余力が生まれると、国内の各国で豪族が自らの力を誇示するために作らせたのが古墳です。
この時代になると階級差も出現し、王族や貴族は大型古墳、地方豪族は中小古墳、一般庶民は横穴墓などに埋葬されるようになりました。
3世紀前半頃に古墳の前身である自然の丘を利用した墓が作られはじめ、3世紀後半には土で塚をつくる墳丘墓が出現し、初期の古墳である円墳もこの頃に作られています。
また出雲地方では方墳が作られるようになり、ヤマト王権の勢力拡大が続く5世紀頃には奈良地方に大型の前方後円墳が作られるようになります。
6世紀に入ると横穴式石室のある古墳が作られるようになり、古墳は関東地方でも作られるようになりますが、ヤマト王権が東北を除くほぼ全国を統一する6世紀後半には古墳は作られなくなりました。
薄葬令の発布
飛鳥時代になると大和朝廷が王権を確立して天皇を中心とした国家の運営を図り、奈良に都を構え大陸から渡来人や優れた文物を請来し様々な法整備がなされるようになります。
そして古墳時代の終焉を迎える決定的な契機になったのが、『日本書紀』の記述にある646年の薄葬令の発布です。
これは中国の故事にならい、民衆にとって過酷な労役となる陵墓の建築を身分によって制限して殉死や殉葬を禁じ、民衆の苦役を軽減する一方で、地方の豪族の力を削ぎ、権力を中央政権に一本化する目的もありました。
しかし、全ての豪族の陵墓の建築を制限したのではなく、一部の有力な豪族は古墳を作ることが出来ました。
火葬の芽生え
この時代になると、様々な書物に日本の葬儀に関する記述が散在するようにあります。
日本ではじめて火葬の記録が残っているのもこの時代で、『続日本書紀』によると女性天皇である持統天皇が薄葬令を豪族に順守させるために自分の葬儀を火葬で行い、大きな陵墓は必要としないことを指示したのです。
王権の頂点である天皇がそれを行ったのであれば、臣下である豪族もそれに従わざるを得ません。
こうして日本の古墳は終焉を迎えたのです。
中世の墓地・霊園の歴史

時代は古代から中世に移ります。
中世の墓地・霊園はどのようなものだったのでしょうか。
上層階級と庶民階級の差
薄葬令の影響で歴代の天皇は荼毘に付され、奈良時代から平安時代になると天皇や貴族の間では仏式で葬儀を行うものが増えてきました。
京都には火葬場として5カ所の荼毘所が設けられ、東寺、四塚、三條河原、千本、中山延年寺が五墓所として定められました。
この頃の日本人の仏教観を知ることが出来る資料が、有名な『往生要集』で死後の世界が詳細に記され、追善供養の必要性を説き、追善供養の卒塔婆を立てるようになったのも平安時代末からです。1036年に後一条天皇を荼毘に付した際、墓の上に石の卒塔婆を建てたという記録があります。
鎌倉時代は浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が登場し庶民にも分かりやす形で仏教が広がり、これに伴い身分の高い大名や武士階級でも墓を作るようになりました。
しかし庶民の葬式自体は仏式で行うものの、埋葬は従来型を踏襲し、自分たちの生活圏から隔離された場所を死者の住む場所として定め、死者の遺骸はその場所にそのまま捨てるか、埋めたとしてもその場所が分かる程度に石や柱を立てるといったもので、今の墓石とは役割が違っています。
生者と死者の住む世界の境界線を表すものが、村の端にある石で出来た道祖神やお地蔵様で、死者の霊から護ってくれる意味合いがあるです。
位牌と戒名の伝来
鎌倉時代になると、民間単位で中国との交流が盛んになります。
当時の中国は禅宗が盛んであり、臨済宗を開いた栄西や曹洞宗を開いた道元も中国に渡り学んで帰国しました。この頃に中国から位牌も伝来しました。
位牌はもともと儒教の葬礼で用いられていた、故人の名前や死後の階級を書いた木札です。
儒教というと孔子が説いた人生訓のようなものと思われる方も多いかもしれませんが、本来は他の宗教と同様の個別の世界観を持ち、特定の神はいませんが巫覡を通し先祖を崇拝する教えです。
これはつまりシャーマニズムで、今は断片的にしか残っていませんが独自の死後の世界も持っています。
戒名は仏弟子になった時に与えられる名で、僧侶になると俗世を捨てることになるので名もその時に捨てることなり、以後は戒名で呼ばれるようになります。
鎌倉時代に各宗派によって仏教が一般庶民に広がると、人は死ぬと仏弟子となり成仏できるとされたため、死んだときに戒名を付けるようになったのです。
この中国から渡ってきた位牌が、日本で卒塔婆と習合し死者の霊の依り代として使われるようになり、そこに仏弟子となったことを示す戒名を記すことで供養の対象となったのです。
もっとも位牌に戒名を記して供養する習慣が広がったのは、もう少し時代を経た江戸時代からです。
近世の墓地・霊園の歴史

さて、更に時代は下り戦国時代を経て徳川家康によって天下が統一され平和な世が訪れます。
この頃の墓地・霊園はどのようなものだったのでしょうか。
檀家制度の確立
鎌倉時代に生まれた日本独自の新興仏教は室町、安土桃山時代を通じて庶民に浸透し、各地で寺院が建立され庶民との結びつきがますます強くなります。
一方戦国時代に南蛮の宣教師によってキリスト教が布教されるとこれを信仰する人々も増え、中にはキリスト教に帰依し自らの領地をローマ法王に献上するような大名も現れます。
このようなことから豊臣秀吉・徳川家康の時代を通じで徐々にキリスト教を禁止する策が講じられてきましたが、それに反発したキリスト教徒による島原の乱で本格的にキリスト教が禁教となります。
この時キリスト教徒を見分けるために設けられたのが寺請制で、庶民はどこかの仏教寺院に自分が仏教徒であることを証明してもらい、その寺の檀家になることが義務付けられたのです。
そして1687年には、幕府は檀家が所属する寺院への参詣や年忌法要、寺への付け届けを義務と明示し、18世紀頃には寺院側も檀家に対し参詣、年忌命日法要の施行、祖師忌・釈迦の誕生日・釈迦涅槃日・盆・春秋の彼岸の寺参り責務を説くようになり、ここに今に続く檀家制度が完成します。
檀家制度により寺院と庶民の結びつきが強くなると、寺院の境内に自らのお墓を持ちたいと願う人々が増えてきます。
それまでは死者のケガレがそこから届かないように、村はずれの特定の場所に死者の遺骸を葬る場所を定めていましたが、寺院の境内であれば仏神の力によってそのケガレが外に及ばないと考えたのです。
このようにして、江戸時代を通じて寺院の境内に庶民のお墓が建てられるようになったのです。
墓石・墓標の普及
平安時代に仏教の伝来と共に、渡来人によって石工の技術ももたらされました。
仏教発祥の地であるインドではストゥーパと呼ばれる石の仏塔が作られ、それに倣い支配階級も自らの信仰の表れとして、石で供養塔である五輪塔、宝篋印塔、宝塔、多宝塔などを作るようになりました。
当然寺院の中にもこれらの供養塔が建てられますから、庶民も祖先の供養のために、墓標として供養塔を模した墓石を、境内に埋葬した故人の傍らに建てるようになったのです。
そのためこの時代の墓標は現在のお墓と違い五輪塔の形をしたものが多いです。
しかし墓石を建てられるのは一部の裕福な庶民だけで、その他の財産のない人々は賽の河原の石積みのように適当な大きさの石を積み上げて墓標としたのです。
実は江戸時代も中期になると江戸などの大都市では現在と同じような墓問題が生じていました。
現在では墓石は家族単位で使っていますが、この時代の人々は故人一人に対し1基の墓標を使っており、しかも土葬なのでそれなりの面積が必要です。
しかし寺院の境内の敷地には限りがあり、時代を経るごとに1人1基の墓石を立てることが困難になってきたのです。
そのため一度土葬した遺骸は数年後に掘り直し、遺骨だけになった遺体を小さくまとめて再度埋め直したり、あるいは寺院境内に荼毘所を設け高僧や貴族だけが行っていた火葬を行うようになりました。
もっとも庶民でも火葬を行うようになったのは一部の都市の富裕層だけで、地方では相変わらず土葬が中心でした。
近代の墓地・霊園の歴史

時は移り日本は明治維新を迎えます。
あらゆる面で西洋化される中、墓地・霊園はどのように変わっていったのでしょうか。
寺請制度の解消
明治維新で大政奉還がなされると、政治の実権は徳川家から天皇家へ移ることとなります。
徳川家康が浄土宗の信徒であったのに対し、天皇家は神道の宗主です。
明治政府は国家神道を頂点として、それ以外の宗教は法に触れない限り認めるという立場をとり、神仏習合であいまいとなっていた寺院と神社を明確に切り離す神仏分離令を発し、全国で廃仏毀釈の運動がおこりました。
明治4年、寺請制度に代わり国民に対して在郷の神社の氏子となることを義務付ける氏子調の法令が出され、法制度としての寺請負制度は解消されます。
しかし一般庶民は祖先の法要や墓参りなどでは必然的に寺院の境内に行かなければならないので、寺請制度で確立した檀家制度は依然として残り、現在も続いているのです。
火葬が一般的に
東京などの大都市では現代と同様の墓地事情から火葬がかなり普及していました。
しかし火葬した際に生じる異臭の問題や、火葬は神道の精神に反するという神道学者の主張により、明治6年に火葬禁止令が出されました。
法令が施行されると瞬く間に土葬が出来る用地が枯渇し埋葬料が高騰、また仏教界側からも火葬再開の懇願があり、明治政府も宗教的な問題から伝染病の防止という公衆衛生上の問題にすり替えることで明治8年にはこの法令を廃止、火葬を義務化し土葬用地を制限するなどの方策が推進されます。
大正時代になると各自治体で火葬場を作ることが盛んになり、地方でも火葬が一般化されます。
しかし土葬も依然として残り、火葬普及率は大正末期の大正14年の調査で43.2%、太平洋戦争が終わって間もない昭和30年でようやく半数を超え54%、昭和55年で91%、ほぼ100%に近い数字になったのは実はつい最近で、平成17年に99.8%となっています。
公園型「霊園」の登場
檀家制度により、今まで寺院の境内にお墓を作ることが一般的でしたが、明治維新以降都市部への人口の流入に拍車がかかったことで、いよいよ墓地が足りなくなってしまいます。
また僅かな期間ですが、廃仏毀釈により神式の埋葬が推奨されたため、それに伴い墓地が必要となっていました。
そこで明治7年、濃国郡上藩の藩主だった青山家の下屋敷跡に日本で初めての公営霊園である青山墓地が開設されました。
当初は神式で埋葬する墓地でしたが、結局世論に押され宗派を問わず埋葬できる墓地となりました。
昭和10年、日本で初めて「霊園」の名が付く都立(当時は市立)八柱霊園が開設します。
八柱霊園、芝生やフランス風の幾何学模様の庭園が整備され、従来の墓地の印象を覆し、以後公園のような墓地を「霊園」と呼ぶようになり、この八柱霊園を範とする霊園が全国各地で作られるようになります。
現代の墓地・霊園の歴史

さて第二次世界大戦後の現代、墓地・霊園はどのように変化していくのでしょう。
墓埋法の制定
戦後焼け野原となった日本ではGHQの指導の下、大日本帝国憲法下の法令を改め日本国憲法を制定し、世界基準に合致する法整備がなされていくこととなります。
昭和23年、墓地、納骨堂又は火葬場の管理及び埋葬等が、国民の宗教的感情に適合し、且つ公衆衛生その他公共の福祉の見地から、支障なく行われることを目的とする「墓地、埋葬等に関する法律」略して「墓埋法」が制定されます。
この法律は公衆衛生上の制限を設けているだけなので、宗教行為には触れておらず公衆衛生に反しない限り葬儀はその宗派の様式で自由に行うことが出来ます。
墓石のカタチの多様化
江戸時代初期には1人に対し1基の五輪塔型の墓石が一般的でしたが、お墓を家族単位で使うようになると、江戸時代中期には現在一般的に見られる墓石の下に納骨室を設けたカロート(唐櫃)式と呼ばれる様式が一般化します。
台石を何段か積み重ね、最上部に竿石という縦長の石を乗せそこに家名や家紋を彫り込み、その形は仏舎利塔や故人が成仏した時の姿であると言われています。
しかしこの従来の墓石では大量の石材が必要で、しかも災害があった時に倒れやすいという欠点があります。
また近年の宗教観の変化から従来の和式にとらわれない墓標として洋式の墓石が登場します。
洋式の墓石は和型墓石と比べ幅が広く、全体の高さや竿石部分も低く作られるため安定感があり、目の前の視界も広がりお墓全体の雰囲気が明るくなるため人気が高く、しかも石材の量が少なくて済み価格も安いため、都市部の霊園の3~4割は洋式の墓石が建てられています。
また最近ではお客の需要に応える形で故人が好きだった物の形や、墓標に好きな絵や文字を刻み込むなどデザイン性に富んだ墓石も建てられています。
確かに墓石は釈迦の遺骨を納めた仏塔を模したところから始まっていますが、故人の冥福を願うのなら形式にとらわれる必要はなく、西洋の墓地では普通に見られることです。
墓地不要の時代に?
一昔前までは当たり前のように人は死ねばお墓に埋葬されるものだと誰もが考えていました。
しかし人が自由に移動することで檀家制度が崩壊し、人が仏教やその他の宗教に関わることがますます希薄となり、宗教観も随分様変わりしています。
また少子高齢化や都市問題などで、墓地を確保したりお墓を次の代に継ぐことが困難になっている人々がたいへん増えています。
このような人々の需要に応える形で、現在お墓も持たなくてもできる供養が増えています。
お墓を持たずに遺骨を埋葬できる葬送として、納骨堂に遺骨を納めたり永代供養墓の他の遺骨と共に埋葬してもらう永代供養、遺骨をお墓ではなく仏壇などに納め供養する手元供養、墓石ではなく樹木を墓標とする樹木葬や海や陸地に粉状にした遺骨を撒く散骨など人により葬送の仕方は様々です。
従来通りの墓地・霊園の在り方が問われていると言っても良いでしょう。
墓地・霊園の歴史まとめ

非常に長くなってしまいましたが、終活のテーマとして墓地・霊園の歴史は興味深かったのではないでしょうか。
最後にこれまでの内容をリストにまとめておきます。
- 古代は個人としてお墓を持てるのは王族や豪族だけで、彼らは大掛かりな古墳を作り自らの権力を誇示していました。一般庶民は遺棄葬という形で特定の場所に捨てられるか、居住区から離れたところに穴を掘り、そこにまとめて葬られていました。
- 中世になると一般庶民にも仏教が普及し、支配者階級のお墓も簡素化し一部では火葬も行われるようになります。しかし墓標を作るのは支配者階級だけであり、一般庶民は相変わらず遺体を特定の地域に集め捨てるか穴を掘って埋めるかしていました。
- 近世になると江戸幕府が定めた寺請制により寺院と庶民の結びつきが強化され、それに伴い檀家となっている寺院の境内に遺体を埋葬するようになり、庶民でも墓石を建てるようになります。
- 近代では明治維新により寺請制が廃止され、都市部に大量の人口が流入することとなり、墓地が不足することになります。公衆衛生上の観点から火葬が推奨され、また寺院内の墓地以外に埋葬できる霊園が急速に全国に広がります。
- 現在は墓地・霊園が整備される一方で、社会の変化や特に人と宗教との結びつきが希薄となっているため、従来型の埋葬の仕方に囚われない供養の仕方も増え、墓地・霊園そのものを必要としない埋葬法も定着し始めています。
現代と同じように一般庶民が墓地を持ち墓石を立てて故人を供養する様式は江戸時代から始まったことでほんの400年の歴史しかないのです。
そして現在ではその様式からまた新たな供養の形へと変化する過渡期なのかもしれません。
最後までご拝読頂きありがとうございました。
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