加藤清正は暗殺された!?その死因に迫る!

真田丸では服部半蔵の手によって暗殺された加藤清正。しかしその死因については未だに決定的な資料はなく、半蔵の手によるものとする以外にも様々な暗殺説、ひいては意外な病気にかかって亡くなったという逸話もあります。加藤清正は本当に暗殺されたのか?

目次

  1. 虎の子・加藤清正
  2. 加藤清正ってどんな人?
  3. 加藤清正死因究明・暗殺編
  4. 加藤清正死因究明・病死編
  5. 結局、あくまで噂程度

虎の子・加藤清正

加藤清正

加藤清正は、豊臣秀吉の軍でも抜きんでていた、当時を代表する武将の一人です。造詣の深い方ならばもちろんのこと、これから歴史について勉強したいという方も、名前と主だった事績くらいならばご存知なのではないでしょうか?

戦場では片鎌槍と言われる片刃のついた槍を片手に暴れて幾多の猛将を打ち破り、政治においても彼の本拠であった熊本では今なお「せいしょこさん」と呼ばれ親しまれるほどの人気を誇る加藤清正。

その死因は急病による病死だと一説には言われていますが、暗殺説をはじめ多くの説が、今なお囁かれています。

今回は、そんな加藤清正の死因について、諸説紹介していきます。

加藤清正ってどんな人?

まずは「名前や大まかな事しか知らない」という方のため、軽くおさらいしていきましょう。

その武勇は虎の如く?

加藤清正と言えば、まず戦争での武働きが浮かぶ人も多いのではないでしょうか?
山崎の戦い、賤ケ岳の戦いを始め主要な戦いの多くを戦い抜き、数々の猛者や部将の首を挙げています。特にその武勇はずば抜けており、訓練ではあの本多忠勝にさえ勝ったと言われるほどです。

また朝鮮出兵においては、諸大名混成部隊の対象を務めており、朝鮮を横断して現在のロシア領まで侵攻したようです。

しかし、前線での働きもさることながら、後方支援や秀吉の警護隊の指揮といった裏方の仕事が意外と多く、これらの記述の量は全線で暴ていたという記述を上回ります。

つまり戦争での直接的な指揮もできますが、やもすればそれ以上に支援を得意としていたかもしれない、非常に万能な武将だったのです。

政治でも功績は大きい

清正は当代でもきっての築城名手としても知られており、堅城として今なお知られる熊本城は、彼の設計によるものとされています。他にも治水工事や南蛮貿易にも成功しており、領民からは今でも慕われています。

また家臣を厳しく律していたようで、家臣団は非常に行儀がよかったと伝えられています。

加藤清正死因究明・暗殺編

さて、そんな加藤清正ですが、死因は急病による病死とされています。が、それには様々な説が横行しており、今でもなお歴史の探究者たちの間で物議をかもしています。その中で、昔から一貫してホットな話題と言えば、暗殺説。

前置き・なぜ暗殺説?

諸説紹介する前に、少し補足を入れておきます。

「なぜ、暗殺説が力強いのか?」

それは、加藤清正の亡くなったタイミングが大きな要因となります。
清正は亡くなる3ヶ月前、豊臣秀吉の子である秀頼と徳川家康の和議を仲裁、さらには秀頼の警護をしていたのですが、加藤清正は豊臣秀吉の子飼いにして、遠縁ながらも血のつながりがあります。つまり、徳川と豊臣が争うと、豊臣方に味方する可能性が十分に考えられるのです。

また、驚くべきことですが、浅野幸長、池田輝政と言った、この会談に参加していた豊臣恩顧の武将が、清正の死後立て続けに亡くなっています。

この事から徳川家康、あるいはその側近によって暗殺された可能性が根強く囁かれています。


さて、お待たせいたしました。それでは、加藤清正暗殺説について、調べた限りの説話を並べていきたいと思います。

毒まんじゅう暗殺事件?

豊臣との和議の際に、徳川方がまんじゅうに毒を仕込み、それを加藤清正に食べさせた、あるいは豊臣秀頼に食べさせようとしたところ、感づいた清正が全て平らげてしまったとのこと。この逸話は歌舞伎の題材としても取り上げられています。

実行犯として挙げられるのは家康の腹心である平岩親吉という人物。家康とは同年齢で、共に数多の危機を潜り抜けてきた朋友です。
彼もまた清正の死後半年としないうちに亡くなっているのですが、このことが毒まんじゅう暗殺説の
有力化を加速しています。

しかし親吉に後継ぎがいなかったことを心配した家康が、過剰なまでに様々な取り沙汰を彼にしていることから、家康本人が毒殺を指示したという説には疑問符が付きます。

毒料理説

まんじゅうの異説ではありますが、料理のほうに毒が盛られており、これを食べた武将が軒並み亡くなったというのです。

実は豊臣の陰謀?

諸説あれども、清正の暗殺に関しては一概に「毒」によるものだという声が非常に多いです。そのほとんどは家康の仕業となっているのですが、中には豊臣によって殺されたという可能性を指摘する説もあります。

というのも、豊臣からすれば、清正らは秀吉の意思を裏切り家康に尻尾を振る裏切り者に見えてもおかしくはありません。実際に秀頼から清正に医者が派遣されたという話もあり、豊臣による暗殺説も、少数ながら囁かれています。

加藤清正死因究明・病死編

暗殺説だけではありません。史書通り病死という説も複数あります。むしろこれらが有力なのではという話も多くあります。

まあ史書にはしっかりと病死とありますし、こちらが信じられてもおかしいとは言えませんよね。

性病説

朝鮮出兵の際に性病(特に有力なのが梅毒)をうつされており、このせいでちょうどタイミングよくなくなったとする説があります。
実際に梅毒が発生してから亡くなるまでが10年ちょっとと言われており、朝鮮出兵から清正の死去までと重なります。

ちなみに徳川家康の次男であり将軍候補であった結城秀康も、梅毒によってなくなったとされています。実際、性病はものすごく流行っていたのだとか。

腎虚説

腎虚という病気(腎臓の病気ではない)にかかっており、それのせいで亡くなったという説もあります。

余談ですが、腎虚というのは射精のしすぎによって発病するという迷信(当然、医学的根拠は皆無です)があるとか。性病説といい、清正は好色家だったのでしょうか……?

ハンセン病説

実はハンセン病だったという説も残っており、これを信じる人たちも少なからずいます。

この説から、ハンセン病が流行していた時には非常に多くの患者が清正をまつる神社を訪れ、病の回復を祈るようなことがあったのだとか。この光景を見たイングランドの女性伝道師は、以後日本ではハンセン病治療に力を入れたのだそうです。

もっとも、同じハンセン病患者の大谷吉継がとんでもなく苦労したのに対し、清正のそういった逸話を聞かないのは疑問ではありますが……?

日蓮教徒はハンセン病に負けない?

加藤清正は熱心な日蓮宗の教徒だったそうです。そして一方の日蓮宗、「ハンセン病は日蓮宗をそしった報いによって引き起こされる」という謎の定義が古くから存在しています。
なので、日蓮宗を信仰していたの清正がハンセン病を患うのはあり得ないという珍説(?)も存在します。

結局、あくまで噂程度

加藤清正

加藤清正はじめ諸大名の謎の死は、非常に怪しい部分の多い話題ではあります。当然、天下の徳川氏が仮に関与していたとしても、それらを歴史の闇に葬り去ることも可能といえば可能です。

しかし、これらはあくまで説。どこまで信じるかは、結局のところその人次第といえるでしょう。

しかし、こう言った陰謀論じみた逸話や説が、歴史探求をする上で花を飾る部分であることは事実。

果たして清正ら豊臣恩顧大名の死は、いったい何が原因なのか……。その真実が解き明かされる日が、実に楽しみですね。

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