織田信長の子供たちとその波乱の生涯を紹介します。

織田信長には20人ほどの子供がいたといわれます。父親である織田信長が存在感がありすぎ、陰に隠れて目立ちませんが、一体どんな子供たちであったでしょうか?またどんな生涯を送ったのでしょうか?その人物像に迫ってみたいと思います。

目次

  1. 織田信長の子供一覧
  2. 織田信長の子供たちの生涯(男子)
  3. 織田信長の子供たちの生涯(女子)
  4. 信長の子供たちの評価
  5. 偉大な父の子として幸福であったか
  6. 終活の専門家に相談してみよう

織田信長の子供一覧

以下は各生没年と幼名、母親です。
男子
織田信忠(嫡男)(1557-1582)享年26歳 幼名・奇妙丸 母:生駒吉乃
織田信雄(次男)(1558-1630)享年72歳 幼名・茶筅丸(ちゃせんまる) 母:生駒吉乃
織田信孝(三男)(1558-1583)享年26歳 幼名・三七 母:華屋院(坂氏)
羽柴秀勝(四男)(1568-1586)享年19歳 幼名・於次 母:養観院
織田勝長(五男)(1570?-1582)幼名・坊丸 母:不明
織田信秀(六男)(1571?-1597?)幼名・大洞 母:稲葉氏?
織田信高(七男)(1576-1603)享年28歳 幼名・小洞 母:興雲院?(お鍋の方)
織田信吉(八男)(1573-1615)享年43歳 幼名・酌 母:興雲院(お鍋の方)
織田信貞(九男)(1574-1624)享年51歳 幼名・人 母:土方雄久の娘
織田信好(十男)(?-1609)幼名・良好 母:不詳
織田信正(庶長子)(1554-1647)享年94歳 幼名・於勝丸 母:原田直子
女子
徳姫(五徳)(長女)(1559-1636)享年78歳 母:生駒吉乃?
冬姫(次女)(1561-1641)享年81歳 母親不明
秀子(三女)(?-1632)母親不明
永姫(四女)(1574-1623)享年50歳 母親不明
報恩院(五女)(1574-1653)享年80歳 母親不明
三の丸殿(六女)(?-1603)母:織田信忠の乳母
於振(七女)(?-1643) 母:お鍋の方。
鶴姫(八女)(生没年不詳)
名前不明(九女)(生没年不詳)
月明院(十女)(?-1608) 母親不明

織田信長の子供たちの生涯(男子)

織田信忠<長男>

信長の後継者として早くから戦に参戦しました。
主な武功
・天正3年(1575年)岩村城攻めの総大将として武田軍を撃退し、岩村城を開城させました。
・雑賀攻めで鈴木重秀(雑賀孫一)らを降伏させました。
・反逆した松永久秀討伐の総大将となり、明智光秀・羽柴秀吉ら諸将を率い、松永久秀が篭城する信貴山城を落城させました。
・天正10年(1582年)の甲州征伐では、総大将として武田領へと進攻し飯田城・高遠城を次々と攻略しました。
・武田勝頼は、信忠軍の進撃の早さに体勢を立て直すことが出来ず諏訪から撤退し、新府城を焼き捨てて逃亡しました。
・信忠は武田勝頼・信勝父子を天目山の戦いにて自害に追い込み、武田氏を滅亡させました。

キャリアアップ
・天正4年(1576年)信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られ岐阜城主となりました。
・信長に代わり総帥として諸将を率いるようにもなりました。
・甲州征伐の論功行賞により、寄騎部将が甲斐、信濃を与えられ、美濃・尾張・甲斐・信濃の四ヶ国に支配を延ばしました。

本能寺の変
・天正10年(1582年)備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく京都の妙覚寺に滞在しておりました。
・本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると本能寺へ救援に向かいました。
・信長自害の知らせを受け光秀を迎え撃つべく二条新御所に移動、篭城しましたが、明智軍が攻め寄せると自害しました。

織田信雄<次男>

北畠氏の養子となる。
・織田信長が大河内城(三重県松阪市大河内町城山にあった北畠氏の居城)の戦い(永禄12(1569年)に起きた北畠具教との戦い)に勝利し北畠氏と和睦。
・和睦の条件に次男信雄は北畠家の養子となりました。
・北畠具教四女雪姫(千代御前)を娶りました。
北畠家を相続したが・・・
・元服して(1572年)信雄は名を北畠具豊とし、北畠家の家督を相続しました(1575年 18歳)。
・1576年義理の父である北畠具教とその子、北畠家家臣14名を信雄の家来に殺害させました。千代御前は自害しました。

     大変残忍な人物ですね。養子先を滅ぼして財産、所領を我が物にしました。
     妻には愛情を感じてなかったものと思われます。

将として疑問の付く行動
・戦には何度も参戦しましたが、織田信長に無断で伊賀攻めを行い、敗走し、信長に叱られました。
・小牧長久手の戦いでは徳川家康と同盟関係にありましたが、自分の領地が敵の羽柴秀吉軍に攻められると、家康に断りなく秀吉と和睦しました。織田信雄を担いでいた家康は戦さの大義名分を失いました。
・後羽柴秀吉の家臣になり、小田原攻めで戦功により秀吉から領地替えを命じられましたが従わなかったため、流罪となりました。

紆余曲折の人生
・流罪中は出家して「常真」と名乗っておりましたが、1592年徳川家康の仲介で赦免され、大和国18000石の大名に復帰できました。
・関ヶ原の戦いでは日和見姿勢であったため、戦後家康から領地を没収されました。
・寄る辺なき身となったところ、従兄弟同士の淀君を頼り豊臣側につき、秀頼を補佐しました。
・ところが1614年大阪冬の陣前に徳川方につき、家康から大和国5万石の大名として復帰しました。
・後京で隠居暮らしをし、領地を息子たちに分け与えた後は茶や鷹狩りを楽しんだようです。

織田信孝<三男>

神戸氏の養子となる。
・織田信長が伊勢平定後、伊勢を治めていた神戸家に信孝を強引に養子縁組させ、神戸信孝と名乗りました。
・信孝は楽市楽座・検地等、父信長が行ってきた政策を採用し、伊勢の発展に尽くしました。

信長からの信頼
・戦に参戦し、調停役・交渉事も任され信長からの信頼も得ていたようです。

本能寺の変
・四国の長曾我部攻めの総大将に任じられ、四国に向かおうとしたところ本能寺の変が起きました。
・仇を討とうとしましたが兵が足りず羽柴秀吉と合流。名目上の総大将となり明智光秀を討ちました。

織田家後継争い
・清州会議にて柴田勝家に担がれ織田家後継者に推されました(この時には織田に復姓していた)。
・羽柴秀吉が推す織田信忠嫡男三法師が後継者に決まり、信孝は三法師の補佐となりました。
・領地も兄信忠が旧領美濃を与えられたにすぎませんでした。

秀吉との対立
・次第に羽柴秀吉と対立するようになり、賤ケ岳の戦いで柴田勝家につき挙兵しました。
・頼みの柴田勝家が北ノ庄城で自害し、織田信孝は秀吉に降伏しました。
・尾張知多郡野間の大御堂寺にて自害させられました。

羽柴秀勝<四男>

 1579年ごろに羽柴秀吉の養子になりました。秀吉に従い戦にも参加しました。本能寺の変後、織田信長、織田信忠の葬儀の喪主を務めました。1585年12月頃病にて死去。

織田勝長<五男>

養子と人質生活
・岩村城主遠山景任の養子でしたが、武田方に岩村城を攻められ落城。武田方の人質になりました。
・9年に及ぶ人質生活中に元服し織田勝長と名を改めました。
・武田方が劣勢となる中、勝長は天正9(1581)年11月24日に父親織田信長の下に送り返され、犬山城城主となりました。
本能寺の変
・本能寺の変の時兄織田信忠と運命を共にし、短い悲運の人生を閉じました。

織田信秀<六男>

秀吉の家臣となり、近江の国に所領を与えられました。キリスト教に帰依し信者となりました。九州征伐、朝鮮出兵で出陣しましたが、1597年病にて人生を閉じました。

織田信高<七男>

羽柴秀吉の家臣となり近江の国神崎郡山上内に所領を与えられました。享年28。

織田信吉<八男>

1583年羽柴秀吉から近江国神崎郡高野村など2000石の所領を得ました。関ヶ原の戦いでは西軍につき、大谷吉継隊加わりましたが戦場からの離脱に成功しました。戦後所領を没収され、豊臣家を頼り、大坂城下で暮らしました。また、晩年は京都で暮らし、出家し剃髪して「道卜」と号したそうです。1615年4月18日京都にて死去、43歳。

織田信貞<九男>

豊臣秀吉の馬廻衆(主君の護衛、事務取次ぎを行う役職。武芸が達者であること)となり、秀吉から近江国の神崎郡、蒲生郡内に1000石の所領を与えらえました。関ケ原の合戦では西軍に味方し、伏見城攻撃に参加しました。戦後所領を没収されましたが、後に家康に召し抱えられ、大坂の陣では徳川方として従軍しました。寛永元年(1624年)に死去。享年51。

織田信好<十男>

羽柴秀吉の家臣となりました。茶人でもあります。慶長14年(1609年)7月14日、死去。

織田信正<庶長子>

1554年に生まれ、織田信長の第一子とされています。ただ嫡出子でないため家督のこと、所領についての情報があまり残っていません。32才の時、出家して「見性軒」と号したそうです。1647年に没しました。享年94。

織田信長の子供たちの生涯(女子)

徳(五徳)<長女>

徳川家康の長男・信康の正室。信康が信長から謀反の嫌疑をかけられ、家康の命で信康が自害すると織田家に戻りました。本能寺の変後は兄・信雄の下に身を寄せましたが、小牧長久手の合戦後は兄・信雄から秀吉に人質として差し出されたようです。関ヶ原の戦い後は京都に隠棲しました。

冬姫<次女>

蒲生氏郷の正室。1595年に氏郷が死去すると秀吉は冬姫を側室として迎えようとしますが、拒否したため秀吉から怒りを買い息子・秀行を会津92万石から下野・宇都宮18万石へ減転封したという逸話も残っています。晩年は京都嵯峨で過ごしました。

秀子(日栄)<三女>

筒井定次(順慶の従兄弟で嗣子)の正室。明智光秀の娘で信長の養女になったともいわれています。

永姫<四女>

前田利家の長男・利長の正室。子供に恵まれず兄信雄の娘や、義理の妹・豪姫の娘らを養女にしたそうです。

報恩院<五女>

丹羽長秀の長男・長重の正室。

三の丸殿<六女>

秀吉の側室になりました。側室になった経緯は分かりません。伏見城三の丸に住居を与えられて三の丸殿と称されました。一旦蒲生氏郷の養女となってから秀吉の側室となったようです。秀吉死後二条昭実と結婚しました。

於振<七女>

水野忠重の次男・忠胤(家康の従兄弟)の正室。後に忠胤は家臣が起こした事件の責任により切腹、於振は従兄に当たる佐治一成と再婚しました。

鶴姫<八女>

中川清秀の嫡男・秀政の正室。

名前不明<九女>

公家・万里小路充房の正室。

月明院<十女>

徳大寺実久の正室。

信長の子供たちの評価

低評価であるが見直されつつある
・偉大な父親であった信長に対し子たちの評価(武将として政治家として)はあまり高いとは言えません。
・父親である信長と比較されるからでしょうか?
・しかし近年の研究で、長男信忠、三男信孝は評価を見直されています。
・残念ながらこの二人は早世しました。
  信忠は本能寺の変で、信孝は豊臣秀吉と柴田勝家の権力抗争に絡んで自害させられました。
  もう少し長生きできていたなら、もっと名を残すような活躍ができたでしょうか?

強者のみが生き残れる時代
 この時代は戦国、群雄割拠の時代。各地に強者がいました。さらに信長、秀吉、家康の三英傑がいた時代です。この時代を生き抜くのは大変であったと思います。能力があれば潰され、能力なければ長いものに巻かれるより他ありません。もう少し時代を変えて生まれてこればよかったのですが、気の毒であったと言わざる負えません。

偉大な父の子として幸福であったか

悲運、薄幸の人生
 「親の七光り」という言葉がありますが、子供たちが偉大な父親をもったことによる恩恵はあったでしょうか?
 能力があると思われた人は潰され、そうでない人は秀吉、家康の家臣として仕えました。かって父親の部下であった人の部下になったわけです。
 女性については政略結婚の道具に有力大名に嫁いでいきました。容姿の美しい方は秀吉の側室にもなりました。
 子供たちの多くは戦にて、病にて短い一生を終えており、悲運でした。

一人だけ例外
 しかし彼ら子供たちの中で次男信雄は少々違います。無駄な戦をして父親に怒られ、秀吉の命に従わず怒りを買い、小牧長久手の戦いでは家康に面目をなくさせ、領地を没収されるなど武将としての資質を疑いたくなりますが、最後は家康に取り立てられ大名に復帰しました。
 秀吉、家康は信雄が器量に優れているとも思えず、生かしておいても自分の子孫に害を与えることはないであろうと判断したためでしょうか?彼だけ幸運でした。

 以上、織田信長の子供たちについて書かせていただきました。最後までお読みくださりありがとうございました。

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