豊臣に尽くした名将・石田三成の最期の時に迫る

石田三成は、豊臣秀吉亡き後徳川家康と対立し、関ヶ原の戦いで敗れて処刑された人物です。昔は無能や嫌な奴という印象が強かったのですが、その最期も含め、近年大きく評価され始めています。では、そんな石田三成の最期は、いったいどんなものだったのでしょうか?

目次

  1. 石田三成は優秀な人物
  2. 今でもよくわからない性格
  3. 石田三成、関ヶ原に臨む
  4. 石田三成の最期
  5. 石田三成、彼もまた謎多き将

石田三成は優秀な人物

石田三成

石田三成と言えば、家康にたてついて処刑された、軍事能力の欠けた二流武将。一昔前までは、世俗ではそういった評価をされてきました。しかし、近年になると評価は一変。実は非常に優れた人物であったという見方が主流となってきました。

本領はやはり知略

石田三成と言えば、やはり政治や知略面での活躍が、何だかんだでメインの功績と言ってもよいでしょう。主には兵站線の管理や諜報、政治といった裏方の仕事での勲功が非常に多いのが特徴です。
例えば後に豊臣政権の最重要土地である堺は石田三成によってまとめ上げられていたとされていますし、刀狩り、検地と言った豊臣政権を代表する政策にも実行人として名を馳せています。

関ヶ原の戦いでも、小さな勢力しか持っていなかったにも拘らず、全国大名への呼びかけや、時には家康との連絡バイパス遮断や人質作戦という非情な手段も用い、本戦では非常に有利な形成を作り上げることに成功しています。

実は戦争や武勇も……

逸話の数は少ないまでも、武勇面での活躍も史書によっては残されています。
織田信長の重臣であった柴田勝家との間に起った、賤ケ岳の戦い。ここでは三成が一番槍を挙げたという逸話もありますし、勇戦していた様子が描かれているものもあります。

関ヶ原においても、東軍の諸将が自身の軍に殺到する中で孤軍奮闘する様子が見られており、一流とはいえないまでも、必ずしも軍事に疎かったわけではないことが伺えます。

今でもよくわからない性格

その人物性においては史書によって大きく異なるため、石田三成の人物像はこうだと決めつけることが非常に困難となっています。一般的には義理堅いが横柄で傲慢な、「嫌な奴」とされることが多く、実際に恨みを持った武将たちが共謀で暗殺計画を企てたという記述もあります。事実として、人望がなかったのでしょう。

しかしその人望の無さも、秀吉の決定を現場係の武将や大名たちに伝える連絡役や、汚れ役を追うことの多いポジションにいたことが多大に影響しています。この人望の無さが三成本人の性格によるものなのか、それとも恨みを買いやすい中間管理ゆえに怒ってしまった悲劇なのか……今となってはそれを確かめる術もありません。

石田三成、関ヶ原に臨む

恨まれ役・石田三成

人に恨まれながらもなんとか豊臣家の支柱としてやってきた石田三成でしたが、豊臣秀吉の死を境に状況が一変します。
徳川家康が、秀吉の生前ではできなかった諸大名の調略をはじめ、著しく台頭してきたのです。これに対し三成は、家康の暗殺計画を他の大名と立てたり、前田利家らとともに圧力をかけて誓約書を書かせたりと、必死に押さえつけようとしている様子が伺えます。

しかし秀吉亡き後の実質的なナンバー2であった前田利家が病死すると、石田三成のこれまでの恨まれようが浮き彫りになってしまいます。なんと豊臣秀吉の子飼いの将であった加藤清正、福島正則をはじめ7名の将が、三成暗殺のために屋敷を襲撃してきたのです。徳川家康の仲裁によって事なきを得ましたが、ここで問題を起こしたことにより隠遁を言い渡されており、家康の台頭をいよいよ止めることができなくなりつつありました。

そして関ヶ原へ

その後、会津の上杉景勝が家康に反発し、これを討伐するため、家康は全国の大名に会津攻撃を命じ、自身もその軍中に加わりました。
これを好機と見た三成はすぐに挙兵。自身と懇意の大名を味方につけ、遅れて会津に到着する予定だった西国の諸大名の動きを妨害。これらも西軍の味方としました。
こうして強引な手段とはいえ多くの味方を得た三成は、家康を美濃の国で迎え撃ちます。

本来は城で迎撃する予定であったと言われていますが、家康の予想外の速さや離脱者、また裏切者として有名な小早川秀秋による強引な独断専行により、急きょ予定を変更、関ヶ原で両軍が激突する形となりました。

当初は地の利や三成らの奮闘もあり西軍が優勢でしたが、即席の軍では士気が上がらず、またい徳川家康による内応で味方が裏切り、そのまま敗北。石田三成は戦場を離脱し逃げ延びる形となりました。

石田三成の最期

何とか戦場を脱して逃走していた三成でしたが、やがて寺に匿われているところを見つかり、そのまま捕縛されます。この時、すでに三成の本拠である佐和山城も陥落し、再起のための戦力を整えることも困難になっていました。
捕まった三成は、共に関ヶ原を戦った小西行長、安国寺恵瓊と共に西軍首謀者として堺を引き回しにされた上、京都の六条河原で処刑されたのです。

さて、そんなあえない最期を遂げた石田三成ですが、最期の時に面白い逸話を複数残しています。

最期の時まで毅然? ギクシャク?

石田三成と福島正則は、裏方と現場という立場の違いもあり、非常に仲が悪かったと言われています。
その福島正則が、捉えられた三成の前に現れると、「無駄に戦争を起こしてそのザマか」と罵声を浴びせてきました。これに対し三成は、「運がなかった。お前を今の私のように捕らえられなかったのが残念だ」と返したそうな。この二人の仲が良ければ、関ヶ原の結末もまた違っていたはずなのですが……。

裏切者、あざ笑う者に容赦なし

小早川秀秋がこっそりと見ているのに気付いた三成は、「裏切りは武将の恥だ。後世まで語り継がれて笑われろ」と言い捨てたと言われています。

また、本多正純という人が「生き恥をさらしている」と馬鹿にしたところを「自害は端武者のすることだ」と言い返したという逸話もあります。

逆にねぎらいの言葉をかけられたことも

逆に黒田官兵衛の子・長政らからは、「勝敗は時の運だ」と慰められており、必ずしも恨まれながらの最期ではなかったことが伺えます。

宿敵・徳川家康も絶賛

徳川家康も、石田三成と会った後に「負けることは恥ではない」「石田三成は対象としての道義を心得ている」と絶賛しています。対する三成は、家康から送られた小袖を受け取らなかったそうですが……。

最期まで諦めず

処刑直前の話です。三成が水を一杯所望したところ、「水はないが柿ならある」と柿を差し出されたそうです。すると三成は「柿は痰の毒だからいらない」と突き返したと言われています。最期の最期まで再起を諦めない、そんな意地が見て取れますね。

実は生きていた?

実は三成は処刑されたわけではなく、家康の重臣の元で軟禁生活を送ったという説もあります。同じく主犯格にして五大老の一人である宇喜多秀家が八丈島に流されるだけで済んだあたり、案外密かに生かされた可能性も否定できませんよね。

石田三成、彼もまた謎多き将

敗北者というのは、歴史において本来の記述を著しく改変され、その事績を捻じ曲げられやすいものです。石田三成にしても、まさに同じことが言えます。
今回挙げた最期の逸話も、実のところ本当にあったという確証のないものばかりです。

豊臣の忠臣・石田三成は、、死の間際に何を思ったのか……。

その答えは、今では闇の中。人の数だけ、説はあるのです。

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