上杉景勝を支えた家臣たち:米沢藩立藩の功臣たち

上杉景勝という人物を聞いたことがある方は多いかもしれません。2009年の大河ドラマ「天地人」の主人公直江兼続の主君といわれればピンとくると思います。その上杉景勝を支えた家臣はどういう人たちだったのでしょうか。今回は上杉景勝の家臣についてみていきます。

目次

  1. なかなか注目されない上杉景勝の家臣
  2. 上杉謙信の後継者上杉景勝とは
  3. 直江兼続:生涯上杉景勝を支えた上杉家執政
  4. 前田利益:あの傾奇者も景勝の家臣
  5. 平林正恒:米沢藩の奉行職を務めた家臣
  6. 泉沢久秀:兼続とともに幼いころから仕える
  7. 岩井信能:会津三奉行の1人で内政を担当
  8. 安田能元:会津三奉行筆頭
  9. 水原親憲:上杉家鉄砲隊を率いて活躍
  10. 甘粕景継:白石城での不覚
  11. まとめ

なかなか注目されない上杉景勝の家臣

上杉景勝(1555~1623)のイメージと聞くと、「上杉謙信の養子で後継者」、「非常に無口な人」、「直江兼続の主君」、「関ヶ原の戦いのきっかけを作った人物」といったところでしょうか。

ここ近年の大河ドラマで注目されるようになったためか、以前に比べると上杉景勝の知名度もずいぶんと上がってきたのではないかと思います。

彼を支えた家臣たちに注目すると、おそらくほとんどの人が直江兼続(1560~1619)の名前を挙げるのではないでしょうか。2009年の大河ドラマ「天地人」の主人公で、生涯景勝に忠義を尽くし、景勝とは実の兄弟のような強い絆で結ばれていた人物です。

もちろん景勝の家臣は直江兼続だけではありませんが、兼続以外の家臣はというと、あまり注目されないことが多いです。
そこで今回は、上杉景勝の家臣についてみていきます。

上杉謙信の後継者上杉景勝とは

上杉景勝の家臣を見る前に、まず上杉景勝がどのような人物だったかを見ていきます。

上杉景勝は1555年に上田長尾家当主長尾政景と、上杉謙信(1530~78)の姉である仙桃院との間に生まれました。
父の政景は1564年に急死(暗殺ともいわれています)、その後謙信の養子となり、彼の下で武将としてのキャリアを積んでいきました。

養父である謙信が1578年に49歳で急死すると、同じく謙信の養子である上杉景虎との間に後継者争い(御館の乱)が発生、幼いころからの側近である直江兼続ら上田衆や景勝支持派の上杉家家臣らとともに後継者争いを制します。

その後豊臣秀吉に接近し、1586年に上洛。一方で越後国内で反抗を続ける新発田重家らを倒して越後を再統一しました。豊臣政権下では秀吉の小田原征伐(1590年)や文禄の役(1592~96年)にも参戦しました。

1595年には豊臣政権五大老の1人になったうえ、1598年には越後から会津120万石に入封となりました。
秀吉の死後、領地を固めながらも、天下を狙う徳川家康に対抗するため石田三成と連絡を取り、家康の上洛命令も無視したことから会津征伐や関ヶ原の戦いへと突入します。

景勝もまた北の出羽を支配する最上義光(1546~1614)を攻めますが、その間に西軍は関ヶ原で敗北したため、景勝も米沢30万石に大幅減封となりました。
晩年は徳川政権に臣従しつつ、米沢藩の基礎を固めました。

直江兼続:生涯上杉景勝を支えた上杉家執政

上杉景勝の家臣たちで最もよく挙げられるのはやはり直江兼続でしょう。
直江兼続は景勝の家臣の中でも特に傑出した人物で、上杉家の執政にもなりました。戦場でも愛の字の前立てが付いた兜をつけて景勝を補佐しました。

兼続は1560年に誕生、初めは樋口与六兼続という名で早くから景勝に近習として仕えました。
その後、上杉謙信の後継者をめぐる御館の乱の際には、武田家との同盟を取りまとめるなど景勝の勝利に大きく貢献しました。

1581年、当主を失った上杉家重臣直江家を婿養子という形で相続し、名を直江兼続と改めます。
また、このころ上杉家家老職や執政職に任命され、上杉家家臣の中でも中心的な位置につきました。

1586年の景勝の上洛や豊臣秀吉への謁見の際にも同行し、秀吉からはその器量を見込まれて豊臣姓と山城守の官位を与えられました。

上杉家の執政として兼続は内乱で荒廃した越後国内の立て直しも行っています。
彼が手がけた新田開発や産業の育成、商工業の振興によって越後は謙信の時代と同じような繁栄ぶりを見せるようになりました。

1598年に上杉家が会津に移った際、兼続にも出羽の米沢30万石が与えられました。
豊臣政権下の大名の家臣でもこれほどの待遇を得たのは兼続しかいません。

やがて秀吉の死後、天下を狙う德川家康から上洛命令が出されますが、兼続はこれに対し「直江状」で反論します。家康もこの直江状を受けて会津討伐に乗り出します。
その直後、上方では兼続と呼応した石田三成らが挙兵、上杉家も出羽に出陣し、兼続は前線司令官として最上義光と争います。

しかし、西軍の関ヶ原での敗退を受けて撤退。この際に兼続は自らしんがりを務めたといわれています。

家康は西軍についた有力大名のとりつぶしや減封を敢行、上杉家も取りつぶしの危機に直面します。しかし、兼続が家康に懸命の嘆願を行った結果、米沢30万石(兼続の領地)への移封でおさまりました。

上杉家が米沢30万石に減封となってからは、主君の景勝とともに新田開発や商工業の育成などによって米沢藩の基盤確立に奔走しました。

景勝が当主だった時代の上杉家においては、基本的に兼続が外交も担当しました。
これも執政としての役目もありましたが、主君の景勝が寡黙な人間だったこともあるのかもしれません。

前田利益:あの傾奇者も景勝の家臣

前田利益(1533?~1612?)と聞くと、傾奇者前田慶次としてのイメージが非常に強いと思います。

もともとは加賀百万石の祖でもある前田利家のもとにいましたが、やがて利家と仲が悪くなったため、利家に悪戯(冬場の風呂に水を張って利家が入るよう仕向けたもの)を仕掛けて出奔し、ちょうど会津に入封仕立てで家臣を多く必要としていた上杉家に仕えるようになりました。

上杉景勝に仕えるようになった理由としては、利益がかねてから景勝の名君ぶりを伝え聞いていたからとも、景勝の剛毅果断さに惚れ込んだからともいわれています。

さて、上杉家家臣になった後、利益は関ヶ原の戦いの際の上杉家と最上家との慶長出羽合戦に参戦、その猛将ぶりを発揮して功績を立てました。この戦いの折、旗指物に「大ふへんもの」と書いて暴れ回ったといわれています。

その後、上杉家が米沢に移ると、利益もこれに同行し、そこで晩年を送りました。
なお、晩年においても利益の悪戯癖は健在だったそうです。

平林正恒:米沢藩の奉行職を務めた家臣

平林正恒(1550~1622)は上杉家の内政を担当した家臣で、上杉家が米沢に移ってからも奉行職を歴任しました。

彼は信濃の出身で、最初は甲信地方の武田家の家臣でした。
しかし、武田家が織田信長(1534~82)に攻め滅ぼされると、そのまま越後に逃れ、上杉景勝に仕えるようになります。

その後、上杉家が会津に移封となると、白河(現福島県白河市)の小峰城に入り、当地の行政を監督しました。

上杉家が米沢に移った後の1608年には、正恒も執政に加えられ、兼続の指揮のもとに米沢藩の基盤確立に奔走しました。
彼の子孫は代々米沢藩の奉行職を引き継いでいます。

泉沢久秀:兼続とともに幼いころから仕える

泉沢久秀(?~1615)は直江兼続とともに幼いころから上杉景勝に仕えており、上田衆の一員でもありました。

景勝が上杉家当主となると、彼も蔵奉行として上杉家の財政を担当、兼続とともに上杉家の重臣として名をはせました。
そのため、1586年の景勝上洛ののちも京都にあって、上杉家の屋敷の留守を守ったり、公家で大納言であった勧修寺晴豊とも親交を交わすという重要な役回りもこなしました。

1598年の会津移封の後、久秀は上杉家の居城若松の城下町の行政を担当する若松所司代に任命されたほか、1万1千石を領しました。
米沢への移封後も、2815石を領し、兼続とともに米沢藩で重きをなしました。

久秀は1615年に亡くなりましたが、後継ぎがいなかったために泉沢家はここで断絶するに至りました。

岩井信能:会津三奉行の1人で内政を担当

岩井信能(?~1620)は会津三奉行の1人で、彼もまた行政手腕に優れた人物でした。

彼の一族は、もともと奥信濃(信濃で最も北の地域)の領主でしたが、甲斐の武田信玄の侵略を受けたため、上杉謙信を頼って越後に逃れ、そのまま上杉家に仕えました。

御館の乱で上杉景勝を支持し、以来その家臣となりました。
1581年に御館の乱の論功行賞に不満を持った毛利秀広が春日山城内で景勝の側近を殺害する事件が発生、その際に実行犯である秀広を討ちとっています。

1582年には奥信濃の飯山に配属され、そこで守備にあたる一方で、城下町の整備にも取り組み、今日の飯山市の基礎を築きあげました。

彼は上杉家家臣の中でも行政手腕に定評があったため、景勝が豊臣秀吉の命で出陣した折にはその留守居役として内政を担当していました。

上杉家が会津に移封となった際には、陸奥宮代城に入り伊達政宗の動きに備えました。
関ヶ原の戦いの際に侵攻してきた伊達家の大軍も見事に追い払いました。

安田能元:会津三奉行筆頭

安田能元(1557~1622)は越後の土豪安田氏の出身です。
しかも祖先は、鎌倉幕府を興した源頼朝の下で政所別当を務めた大江広元でした。

御館の乱では景勝に味方し、以後景勝に仕えるようになりました。
しかしその後、兄の安田顕元が御館の乱の論功行賞について不満を持った家臣を止めることができず自害したため、能元がそのまま安田家当主となりました。

その後、上杉家は豊臣政権に参画し、景勝が秀吉の命で出陣する際には、岩井信能とともに留守中の行政を任されました。

上杉家の会津移封の際に、能元も会津三奉行となり、その筆頭格として活躍。領内の道路や橋の修築、武具の整備や浪人の召し抱えも担当しました。

米沢に移った後は、直江兼続とともに城下町の整備に取り組み、また大坂の陣でも大坂方の大野治房(大野治長の弟)を打ち破る活躍を見せています。

水原親憲:上杉家鉄砲隊を率いて活躍

水原(すいばら)親憲(1546~1616)は、御館の乱で景勝を支持した頃から武功を重ねた人物です。

1581年から82年にかけて柴田勝家率いる織田軍が越中に侵攻してきた際には松倉城で守備にあたっています。
ただし、そのあと彼の活躍に関する記録は一時途絶えることになります。

再び彼に関する記録が見られるようになるのは、上杉家が1598年に豊臣秀吉の命によって会津に移封になった後のことです。この際、親憲は福島城の城代に任じられ、1600年の関ヶ原の戦いの際に伊達政宗の軍が攻めてきたときには空城の計で退けました。

その後、慶長出羽合戦では直江兼続らとともに最上義光を攻めますが、関ヶ原での西軍敗北を受けて上杉軍は撤退。この際に親憲は追撃してくる最上軍を鉄砲隊200名を率いて手痛い打撃を与えて追い散らし、上杉軍の撤退を援護しました。

上杉家が米沢に移った後、親憲も兼続や会津三奉行らとともに町整備に力を尽くし、三奉行の1人大石綱元の死後は、彼の後任として奉行職に就任しました。

大坂冬の陣では、上杉軍の第3陣を担当。第1陣と第2陣が大坂方の攻撃で崩れた状況を受けて、敵を十分にひきつけたうえで一斉射撃を行い形勢逆転に貢献しました。

甘粕景継:白石城での不覚

甘粕景継(1550~1611)も上杉景勝の側近衆である上田衆の1人として、直江兼続や泉沢久秀らとともに早くから景勝に仕えました。

彼は槍と長刀の名手であったため、上杉謙信から武将としての才能を見込まれていました。
その謙信が1578年に亡くなるや勃発した御館の乱では主君の景勝に従って転戦し、景勝の勝利に貢献しました。

その後織田信長の侵略に呼応して挙兵した新発田重家と戦い、戦功を上げています。

彼は行政面でも活躍しており、1591年に東禅寺城(山形県酒田市)城主として水路の開鑿や米蔵の増築、新田開発などに努めて戦乱で荒廃した越後の復興に尽力しました。

上杉家の会津移封の後、彼は伊達領にほど近い白石城を任されますが、関ヶ原の戦いの際に不覚を取ってしまいます。

ちょうど会津征伐に向かってくる徳川家康に対抗するための軍議が南の白河城で開かれたために景継も出かけて行ったのですが、留守の間に白石城を伊達勢に奪われてしまったのです。
当然ながら主君の景勝は怒り、景継を死罪にしようとするほどでした。が、直江兼続らがとりなしたので一命は取り留めましたが、以後しばらくの間は冷遇されていたようです。

ただ、関ヶ原の戦いの後の米沢移封の際には、知行についても藩の役職についても上杉家重臣にふさわしいものであったことから、その頃には景継に対する待遇は元通りになっていたようです。

まとめ

上杉景勝の家臣たちについてみてきました。
景勝自身が豊臣政権の時代から徳川幕府の時代にかけて活躍した人物であるせいか、そのぶん家臣の顔ぶれも内政を担当した奉行が多く目立っていたように思えます。

中には文武両道に長けた人物も多くみられ、越後上杉家(米沢上杉家)にもいろいろな武将がいたことがうかがえます。

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