南北朝時代の名将楠木正成の子孫はどうなった?

13世紀の前半、鎌倉幕府滅亡から南北朝騒乱という激動の時代を生きた名将楠木正成。戦前には名将であるとともに南朝の忠臣とされた正成の子孫とはいったいどんな人たちだったのでしょうか?今回はこの名将楠木正成の子孫についてみていきます。

目次

  1. 楠木正成に子孫はいたのか
  2. 南北朝時代の名将楠木正成とは
  3. 楠木正成の嫡男・楠木正行
  4. 室町時代中期の正成の子孫
  5. 戦国時代に突如現れた子孫とされる人物
  6. 江戸時代:楠木正成の軍学の流行
  7. 近代以後:子孫たちの同族会
  8. まとめ

楠木正成に子孫はいたのか

楠木正成はもともと河内の武士でしたが、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の計画に呼応して挙兵。
上赤坂城や千早城で少数の兵とともに立てこもって幕府の大軍を翻弄したのち敗退させました。

鎌倉時代末期から南北朝時代という激動の時代を生きた武将・楠木正成(1294~1336)。

彼に対するイメージといえば、わずかな手勢で鎌倉幕府の大軍を敗退させた名将という人もいるかもしれません。

あるいは年配の方だと、後醍醐天皇の南朝に忠義を尽くした忠臣というイメージを持っている方もいるかもしれません(実際、戦前の教育の中では、彼は「大楠公」ともいわれ皇室に尽くした大忠臣とみなされていました)。

もしかすると、1991年の大河ドラマ「太平記」で武田鉄矢さんが演じたような「気のいいおじさん」というイメージもあるかもしれません。

いずれにしても、今も昔も人々の中で存在感の大きい楠木正成ですが、彼に子孫となる人物はいたのでしょうか。
今回はその楠木正成の子孫について追っていきたいと思います。

南北朝時代の名将楠木正成とは

千早城跡。
1332年から1333年にかけて楠木正成はこの城で鎌倉幕府の大軍を相手に奮戦。
彼の名将ぶりを世に知らしめました。

楠木正成は1294年に河内で生まれました。
彼の出自は河内生まれの土豪とも、または悪党(中世に支配層に抵抗した独立勢力)や非御家人ともいわれていますが、詳しいことはいまだ謎のままです。

鎌倉幕府を牛耳る執権北条家に対する不満が世に満ちつつあるのを見た時の後醍醐天皇はこの機に朝廷に実権を取り戻し、かつての公家による政治を復活させようとと倒幕に向けて動き出し、正成もこの動きに呼応して地元の河内で挙兵します。

正成の名将ぶりが知られるようになったのは1332年から1333年にかけての千早城の籠城戦のことでした。
百万ともいわれた幕府の大軍をわずかな手勢でひきつけ、ゲリラ戦法などを駆使して最終的に敗退させたのです。
彼の名将ぶりはのちに敵対した足利尊氏さえも称賛したほどでした。

こののち足利尊氏や新田義貞など全国で挙兵した反幕府の武士たちの力もあり、1333年の鎌倉の陥落で鎌倉幕府は滅亡しました。
その後、後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、わずか1年ほどで足利尊氏などそれに不満を持つ武士たちが挙兵します。

挙兵した尊氏を一時は京都から追い落とした正成ら後醍醐天皇軍ですが、その翌1336年、尊氏は西日本各地の武士を結集して大軍で攻め上ってきました。
楠木正成も後醍醐天皇の命で尊氏の討伐に向かいましたが、尊氏との決戦となった湊川の戦いで敗退し、弟の正季や生き残った部下たちとともに自害しました。

彼の死後、室町幕府の治世の中で彼は「幕府が奉じる正統な朝廷に刃向った逆賊」として朝敵の汚名を着せられていました。

しかし、彼が戦いの中で見せつけた軍略は、江戸時代になってから楠木流軍学として流行し、当時の多くの武士が彼の軍略を学びました。

また、江戸時代の後期に尊王思想が発達するにつれて、楠木正成は正統な皇室の流れと考えられた南朝に尽くした忠臣として扱われるようになり、明治時代以後、戦前まで彼は「大楠公」と呼ばれ、当時では歴史や道徳の教育の中で、天皇や国のために忠節を尽くす日本人の理想像とみなされました。

楠木正成の嫡男・楠木正行

人々

楠木正成の息子楠木正行。
父の死後、その遺志を継いで南朝方の武将として北朝軍と戦いました。
父譲りの軍略の才もあり、南朝の中では高い期待を背負っていました。

楠木正成の子孫で最初に挙げられる人物は、正成の嫡男である楠木正行(まさつら、1326?~48)です。
彼は父正成が「大楠公」と呼ばれるのに対し、「小楠公」と呼ばれています。

彼にまつわる逸話として「桜井の別れ」というものがあります。
これは鎌倉幕府滅亡から南北朝時代を描いた軍記物語「太平記」に出てくる名場面の1つです。

1336年、湊川の戦いに出陣する楠木正成の軍に正行も同行していました。
が、摂津の桜井に来たところで正成は正行を呼んで、故郷の河内に帰るよう命じます。
正行は父に一緒に行かせてほしいと願い出ますが、「父はおそらく今度の戦で死ぬであろうから、お前は父の後を継いで帝(後醍醐天皇)に忠節を尽くし、いつか朝敵を滅ぼせ」と言い残しました。
結局、正行は父の言いつけどおりに河内へ戻った、というのがこの逸話の内容です。

この桜井の別れの逸話もまた、戦前教育の国語や道徳の授業の中でよく取り上げられた題材でした。
なお、「太平記」によればこの時点で正行は11歳とされていますが、すでにこのころ官職を得ていたことから20歳前後であったという説もあります。

彼もまた父が1336年の湊川の戦いで戦死した後、その遺志を継いで南朝方の武将として北朝軍(足利軍)と各地で戦います。
摂津の天王寺で足利軍の山名時氏や細川顕氏の軍を打ち破ったことや名将楠木正成の息子ということもあり、南朝方の武将の中でも相当期待されていたようです。

1348年、正行は摂津の四条畷で足利家執事の高師直・師泰兄弟の軍と戦って敗北、正行は弟の正時とともに自害して果てました。

室町時代中期の正成の子孫

1348年の四条畷の戦いでの正行の死後、生き残った正行の次弟(正成の三男)である楠木正儀(まさのり、1330?~89?)が後を継ぎました。
そして正儀もまた父や兄の遺志を継いで北朝との戦いに身を投じるのでした。

正儀が活動を開始したころ、北朝側では観応の擾乱と呼ばれる内紛状態に陥っており、これに乗じて南朝方は勢力の回復に努め、1352年には京都の奪還に成功しています。
その一方で、北朝方の重鎮である佐々木道誉(ばさら大名として著名な武将)に接近して、北朝方との和解を模索しました。

しかし、そんな中、正儀の理解者であった主君の後村上天皇が崩御、そのあとに対北朝強硬路線をとる長慶天皇が即位しました。
そのため、陣営内で孤立した正儀は1369年に3代将軍に就任したばかりの足利義満に帰順します。

が、その後、北朝内部での正儀の庇護者であった細川頼之が1379年に失脚したため、再び南朝方に帰順することになりました。
それ以後は南朝方の武将として北朝軍と戦って生涯を終えました。

正儀の息子たちもある者は室町幕府の軍との戦いで戦死し、ある者は将軍足利義満の暗殺に失敗して処刑されたりしています。

そしてその子孫たちもまた頑強に足利幕府に反乱を起こしたり、将軍暗殺を企てたりするのです。
中にはとんちで有名な一休さんこと一休宗純の縁者になった人物もいます。

戦国時代に突如現れた子孫とされる人物

楠木正成にかけられていた朝敵の汚名を晴らした第106代正親町天皇。
彼のこの動きは、正成の子孫にあたる楠木正虎の嘆願によるものでした。

その後、正成の子孫たちは歴史の表舞台に現れなくなります。
月日が流れた戦国時代、かつての北朝を擁した足利幕府の権威や権力は戦乱の中で見る影もなく衰えていました。

そんなさなかに楠木正成の子孫を称する人物が現れます。
彼は楠木正虎(1520~96)といい、もともと備前の生まれなのですが、系譜上では彼の父が楠木正儀の子正秀の末裔でした。

彼は祖先である楠木正成の汚名返上を朝廷に願い出ます。
当時の朝廷では楠木正成は朝敵として扱われていたのです。
そこで1559年に当時の京都を支配していた三好家の執事であった松永久秀のとりなしで正親町天皇に嘆願、間もなく正成にかけられていた朝敵の汚名は正式に晴らされることになったのです。

この楠木正虎はのちに織田信長や豊臣秀吉に右筆(書記官)として仕えています。

一方で楠木正虎のように信長に仕えた人物もいれば、同じ戦国時代に生きた正成の子孫でも楠木正具(まさとも、こちらも正成の子孫)のように伊勢や石山本願寺において信長に抵抗した人物もいます。

江戸時代:楠木正成の軍学の流行

戦国時代の動乱の時期から江戸幕府による太平の世となって数十年たったころの17世紀半ば、楠木不伝という兵学者がいました。
戦国時代に活躍した楠木正虎の息子といわれています。
そして、1651年の慶安の変(由比小雪の乱)を起こした由比小雪の師匠・義父です。

この楠木不伝は、祖先である楠木正成の軍略をもとに楠木流軍学を興し広めました。
楠木流軍学はその後の武士の間で広く学ばれ、越後流軍学や甲州流軍学などとともに軍学の一大流派を形成したのです。

江戸時代に活躍した正成の子孫はほかにも、楠木正長という人物もいます。
彼も楠木正虎の4代後の子孫といわれています。
彼は1662年に讃岐高松藩の松平頼重(水戸藩第2代藩主水戸光圀の兄)に招かれて高松藩に仕えるようになりました。
以後、その子孫は代々高松藩に仕えることとなりました。

近代以後:子孫たちの同族会

湊川神社

兵庫県神戸市にある湊川神社。
1336年の湊川の戦いで楠木正成が戦死したことにちなんで、1872年に湊川古戦場のあるこの地に創建され、正成を祀っています。
なお、創建には明治天皇の後援があったほか、管理には正成の子孫などゆかりのある人物で構成される楠木同族会などがあたっています。

江戸時代後期から明治時代にかけて楠木正成は南朝に尽くした忠臣とみなされるようになりました。
尊王思想が発達する中で、歴史上皇室に忠義を尽くした人物がクローズアップされる中で正成も中心として扱われるようになったのです。

やがて、近代日本の富国強兵策の中で楠木正成は天皇に忠節を尽くした日本人の鑑とみなされるようになり、歴史や国語、道徳の教科書の題材として使われるようになりました。

また、正成が戦死した兵庫県の湊川には、正成を祀る湊川神社が明治天皇の後援で1872年に創建されました。

さて、昭和に入ってからの1937年、楠木正成の子孫たちの親睦と楠公精神の昂揚を図る楠木同族会が設立されました。
初代会長には、戦国時代に織田信長に抵抗した楠木正具(彼も楠木正成の子孫)の子孫である山下太郎(のちのアラビア石油社長)が就任しました。

この同族会はその後の太平洋戦争の戦災による財政難や会員不足で一時衰退しますが、細々ながら脈々と受け継がれ、2002年にあらためて発足されました。
現在ではこの同族会も含めたさまざまな団体が湊川神社の管理や支援を行うほか、楠木正成の精神を後世に伝えようと活動しています。

この同族会の会員資格ですが、楠木正成の子孫など正成にゆかりのある人物であること、とのことです。

まとめ

南北朝時代の名将楠木正成の子孫についてみてきました。
正成の息子の正行以来、正成の子孫たちが主君に忠節を尽くしつつ主君の敵(基本的に室町幕府)にさまざまな手段で果敢に挑んだ姿を垣間見ることができます。

結果的にはその戦いの中で勝つことよりもむしろ負けることが多かったかもしれませんが、それでもその中には勝ち負けの結果よりも自分の主君のために最後まで力を尽くして、敵にあたるという生き様や精神を何よりも大切にしていたのではないでしょうか。

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