真田信之(真田信幸)の生涯とその子孫について

真田信之(真田信幸)の生涯とその子孫について

戦国の世が終わった後二つに分断された真田家、真田家と言えば大河ドラマでも有名な真田幸村を思い浮かべる方が多いと思います。今回その兄である真田信之とその子孫について調べてみました。真田信之の子孫はどんな方なのでしょうか?

最終更新日: 2020年12月24日

真田信之の妻子

永禄9年(1566年)父・真田昌幸 母・山手の嫡男として生まれました。
幼名は源三郎、元服後信幸を名乗りました。

後に徳川家康の家臣である、本多忠勝の長女・小松姫(幼名・稲姫)を正室に迎え、次男の信政・三男の信重、長女のまん・次女のまさの6人の子を授かりました。

一般的に真田家の家紋と言えば赤地をイメージしますが、戦場においての真田信之の家紋は黒地でした。

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今回「終活ねっと」では真田信之に関して以下のような事柄を中心に説明していきます。

  • 真田信之とはどんな人物か
  • 真田信之のその後
  • 真田信之と子孫たち

時間がないという方やお急ぎの方も、知りたい情報をピックアップしてお読みいただけます。
ぜひ最後までお読みください。

武将真田信之から見る人間性

弟である幸村に比べ、現代ではあまり広く名を知られていない真田信之ですが、真田家嫡男としての意識はしっかりと持っていたようです。

17歳から軍を率いて戦場に赴いており、普段は静かで温厚な性格ながらも戦場では前線に立ち部隊をしっかりと統率し見事な活躍を見せていました。

真田信之は、上杉景勝の軍勢と戦いや、僅か800の兵力で5000の北条軍が籠る手子丸城を攻め落とし、沼田城を奪還するなど戦でも優れた戦功を残しています。
手子丸場を攻め落とし際には、北条軍を誘き出して伏兵に挟撃させたり、北条軍の同士討ちを誘うという内部からの切り崩し工作を行っています。
このように戦力・知力に優れていた真田信之は、普段はもの静かで温厚な性格も手伝い人望も厚く、真田家存続の為に手を尽くし、一族を守り抜いた一番の功労者が真田信之である言えます。

また関ヶ原の戦いでは、父昌幸と弟幸村が石田三成率いる西軍につき、徳川家康の東軍に真田信之がつく事により親子別軍での戦いとなりました。
これは、父昌幸が東西どちらの勝敗でも真田の名が残るとの考えからで、結果真田信之のいる東軍が勝利する事となりました。

真田信之は、世間一般に知られる弟幸村に勝るとも劣らない、いわば戦国末期の名将の一人であったのは間違いないと言えます。

真田信之関ヶ原の戦いその後

真田家の男児は代々名前に『幸』の字を入れる事が受け継がれています。
真田信之も関ヶ原の戦い以前は『信幸』という名前でしたが、父・昌幸との決別を示し、徳川との絆をより深める意味合いを込め『幸』を『之』と改め真田信之としたのです。

父との決別、そして徳川との絆、云わば忠誠心を示した真田信之でしたが、そこには敵軍として戦い
敗者となった父と弟(幸村)の命を守りたいとの思いがあったのでしょう。
結果真田信之の助命嘆願により父・昌幸 弟・幸村は流罪となり生き永らえる事となったのです。

関ヶ原の戦いで功績を残した真田信之は、慶長6年(1601年)徳川家康から上田領を与えられましたが、既に家康が上田城を破却していて、三の丸跡地に居館を構えると、重臣達を入れ藩主邸とし政務を執り行いました。

上田藩が安定してきた元和6年(1620年) 小松姫が亡くなり、真田信之は「灯火が消えた」と嘆きます。
小松姫こそが徳川と真田家を重要な役割を果たしていたのです。
そしてその2年後の元和8年(1622年) 真田信之は幕府から松代藩への移動が命じられました。
その後真田信之は93歳で亡くなりますが、この時代には珍しく長生きだったといえます。

真田信之の子供達と現代の子孫

真田信之の子供は全員で先ほどの4人を含めて6人です。
長男の信吉は清音院殿との子で、四男の道鏡慧端(どうきょうえたん)は小松姫の死後に生まれた子供です。
真田信之の長男・信吉は、信之が存命中の1635年に40歳で死去しています。
また信吉には長男・熊之助がいたのですが、信吉が亡くなったその三年後にわずか七歳で亡くなっていて、信之の後を継いだのは、熊之助の後継人だった次男である信政でした。

しかし跡を継いだ信政ですが、継いだ二年後に亡くなります。
信政もまた後継が育たず後継問題の末、まだ幼い六男が後を継ぎました。

真田信之の子孫

真田信政の六男が跡を継いで以降の真田家は、六代目藩主真田幸弘に後継者が育たなかった為に
他家から養子を迎える事となります。

結果真田信之直系の子孫は途絶えてしまったのですが、子孫繁栄の為に養子を迎えるのはこの時代に珍しくない事でした。
ですので今も真田信之の子孫は残ってはいますが、上記のように養子を迎え入れた為、真田信之直系(血筋)の男系では残っていません。
松代藩は幕末まで残り明治時代に当主が子爵の位を授けられました。

真田信之現代の子孫

現在真田信之の子孫は信州(長野県)にてその系譜を大切に守っていらっしゃいます。

その子孫にあたるのが真田俊之(さなだとしゆき)さんで、真田信之から14代目当主で慶應義塾大学理工学部電子工学科の教授で、次世代の携帯電話の通信ネットワークの研究に勤んでいらっしゃいます。

本業の他、真田家子孫当主として現代でもやるべき事は多々あり、毎年10月に行われる真田十万石祭りへの出席や7年に一度行われる善光寺の御開帳では回向柱となる神木の奉納に立ち会います。
それ以外ににも真田家縁の方々や真田ファンで構成された真田会への出席等忙しくも楽しい毎日を過ごしていらしゃいます。

また、当主に代々『信』か『幸』の字を使うという風習は今も受け継がれていました。
しかし当然の事ながら同名はあってはならず、パターンも限られていて後になる程に、息子さんの名前を考える時には字画を踏まえながらの中とても苦労されたという事で、子孫として風習を受け継ぐ苦労が伺えます。

まとめ

真田信之は、真田昌幸の嫡子であるという意識が強かった故に戦だけではなく、細かな面倒事まで全て引き受け片付けていました。
現代では弟・幸村の名に隠れてしまっている傾向にありますが、真田家存続の為に必要不可欠な存在であった事が窺い知れます。

そして現在も子孫の方々が様々な活動により大切に守ってくれているからこそ、真田家は今も語り継がれているのです。

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