鎌倉幕府の実権を掌握!執権・北条氏をご紹介します

源頼朝によって創設された鎌倉幕府ですが、頼朝の亡き後に実権を掌握したのは執権の北条氏一族でした。北条氏は、どのようにして幕府の実権を握ることになったのでしょうか?鎌倉幕府の執権政治についてご紹介します。

目次

  1. 鎌倉幕府の執権・北条氏とは
  2. 朝廷VS幕府・承久の乱
  3. 執権政治の礎
  4. 執権政治の確立
  5. 鎌倉幕府の執権一覧
  6. 鎌倉幕府の執権・北条氏のまとめ

鎌倉幕府の執権・北条氏とは

鎌倉幕府は、1192年(1185年など諸説あり)に源頼朝によって創設されました。しかし、1199年に初代将軍である頼朝が亡くなりました。

第2代将軍・源頼家

頼朝の死後、頼朝と北条政子の子・源頼家が18歳の若さで第2代将軍(鎌倉殿)となりました。

しかし、頼家は慣習に従わず偏った判断をするとのことで、重臣たちにより「十三人の合議制」という合議制度が制定されました。この中心となったのが、将軍の外戚(祖父)となった初代執権・北条時政たちです。これにより頼家は将軍でありながら、直接に裁定を下すことができなくなりました。

その後、頼家派の比企氏と、頼家の弟・実朝派の北条氏の間で争いが起こります。比企氏は北条氏により滅ぼされ、頼家は将軍職をはく奪されました。そして伊豆・修善寺に幽閉された後、1204年に暗殺されました。

第3代将軍・源実朝

1203年、頼朝の子で、頼家の弟・実朝がわずか12歳で第3代将軍となりました。
実朝は歌人として知られ「勅撰和歌集」「小倉百人一首」に選出されているほか、実朝の歌集「金槐和歌集」があります。

1206年、母・政子の命により甥(兄・頼家の子)の善哉(後の公暁)を猶子とします。

幕府内は、初代執権・北条時政から息子の義時へ家督が継がれ、北条氏は地位の確立に励んでいましたが、頼朝時代からの家臣で侍所別当・和田義盛が対抗するようになりました。しかし1213年、義時は和田家を滅ぼしました。

そのような混乱の中で、1219年、実朝は猶子・公暁により殺害されます。殺害の理由は、親の仇、北条氏による源姓の根絶、北条氏の政敵による策略、朝廷による倒幕など諸説あるようです。公暁もこの事件の後間もなく殺されてしまいます。

朝廷VS幕府・承久の乱

実朝、公暁の死により、鎌倉幕府の創設者である源頼朝の直系がいなくなってしまったため、親王を将軍に迎えようとしますが、後鳥羽上皇により断られてしまいます。​そこで、頼朝と血縁のある摂家から、2歳の藤原頼経(ふじわらのよりつね)を迎えることとなりました。

1221年、源家が断絶し北条氏が鎌倉幕府の実権を握ると、西国の中心である朝廷の後鳥羽上皇が、執権・北条義時を討伐するため兵を挙げました。これが承久の乱です。

朝廷側

後鳥羽上皇の狙いは、倒幕というよりも鎌倉幕府の執権・北条義時の打倒にあったようです。

朝廷VS幕府ということから、朝敵となって北条氏に味方する者はいないだろう、という見立てがあったようです。藤原秀康、三浦胤義(みうらたねよし)、大内 惟信らが味方しました。

幕府側

朝廷を敵にする戦いに、幕府側の御家人たちは怯みますが、ここで御家人たちを奮起させたのが、鎌倉幕府の創立者である源頼朝の妻・北条政子です。有名な演説がこちらです。

皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。
— 『吾妻鏡』承久三年辛巳五月十九日壬寅条(原文は変体漢文)

鎌倉幕府に味方した御家人たちは、この演説に心を動かされたのでしょう。また、幕府からの恩賞も、御家人たちの心を大きく動かしたようです。

結果

結果は、鎌倉幕府側の勝利となりました。
後鳥羽上皇は隠岐へ流罪となりました。また他の上皇、親王たちの多くも配流、朝廷に味方した武士たちも流罪、謹慎、追放と粛清されることとなりました。

幕府側の公卿・西園寺公経が内大臣に就任し、朝廷は幕府の意向によって動かされることとなりました。

執権政治の礎

摂家将軍

1224年、鎌倉幕府第2代執権・北条義時が亡くなり、息子・泰時が第3代執権に就きました。
翌1225年には北条政子や大江広元など開府時の重臣も亡くなりました。泰時は、世代交代をスムーズにするため、また承久の乱のような混乱を防ぐための制度作りに取り組みました。

1226年、摂家から迎えた幼い頼経が第4代将軍に就きました。

評定衆の制定

第3代執権・北条泰時は、政治の集団意思決定機関である「評定衆」を設置しました。

御成敗式目の制定

1232年、武士の武士による武士のための法として知られる「御成敗式目」を制定しました。

将軍をトップに、将軍の補佐をする執権、政治を担当する「政所」、御家人の統率や軍備を担当する「侍所」、裁判や訴訟を扱う「問注所」、国ごとの警備を担当する「守護」、国ごとの荘園・税の管理を扱う「地頭」に加え、京や西国の監視・警備をする「六波羅探題」を設置しました。

執権政治の確立

宝治合戦

第4第執権・北条経時の頃となると、執権の北条氏派と、それに反感を持った三浦氏をはじめとする将軍派により、鎌倉幕府内で対立が起こりました。1247年、内乱・宝治合戦が勃発しましたが、第5執権・北条時頼は三浦氏やその一族を滅ぼしました。

引付衆の設置

1249年、当時多発していた御家人同士の所領争いを専門に行う「引付衆」を問注所の下部組織として設置したそうです。

宮将軍

1252年、第5代将軍・藤原頼嗣が幕府への謀反に関わったとされ廃されました。そして幕府は、宗尊親王(むねたかしんのう)を第6代将軍として迎えました。

これ以降、鎌倉幕府は皇族・親王から将軍を迎え、将軍は政治に関わらせないという形が通例となりました。それは執権・北条氏の専制を強めていくこととなりました。

鎌倉幕府の執権一覧

第16代まで続く鎌倉幕府の執権をご紹介します。

1・北条時政、2・北条義時、3・北条泰時、4・北条経時、5・北条時頼、6・北条長時、7・北条政村、8・北条時宗、9・北条貞時、10・北条師時、11・北条宗宣、12・北条煕時、13・北条基時、14・北条高時、15・北条貞顕、16・北条守時

鎌倉幕府の執権・北条氏のまとめ

鎌倉幕府の執権・北条氏がなぜ、どのようにして権力を握ったのかをご紹介しました。御家人たちを説き伏せた政子、御成敗式目を定めた泰時など、強引にも見えますが北条氏は優れた武将・政治家であったと感じます。

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