戦国武将・最強伝説 ~軍師、武力、個人での強さに迫る~

名だたる戦国武将のなかで最強とされる武将はどんな人物なのか。ここでは戦国最強と言われる武将や、戦国最強と言われた組織など、最強にこだわって戦国武将の紹介をしていきたいと思います。

目次

  1. 戦国武将・最強軍師
  2. 最強の武力
  3. 戦国武将の個人的最強伝説
  4. 戦国一、最弱武将
  5. 戦国武将から見る強さとは

戦国武将・最強軍師

戦国時代に軍師として活躍した武将を紹介していきたいと思います。
細かいことは抜きにして、軍師としての活躍を抜粋していきたいと思います。
数々の戦を勝利に導き、最強軍師とはどんな人物だったのでしょうか。

小早川隆景

戦国武将・小早川隆景です。
毛利家主導者でしたが毛利家・家臣としての姿勢は崩しませんでした。

1533年~1597年
毛利元就の三男として生まれました。
兄は毛利隆元尾、吉川元春です。
小早川家の養子となり後を継ぎます。
しかし、毛利家の実質的な主導者でした。

危険な戦いはせず、計略をもって勝利することに非常に優れていました。
軍師・官兵衛でも有名な黒田官兵衛の良き手本となり、アドバイスをする間柄でした。
隆景の訃報を聞いた官兵衛は「これで日本には賢人がいなくなった」と嘆いたと言われるほどの人物でした。
豊臣秀吉からの評価も高く「西は隆景に任せておけば問題ない」と言われています。

甥であり、主君である毛利輝元に「天下が乱れても、輝元は軍事に関わらず自国を守ることを考えること。身の程をわきまえず、天下の騒乱に加わったり野望をもつと、自国だけでなく自身すらも危機にさらすことになるだろう」と言葉を残しています。
そして隆景の死から3年後、この言葉は現実になってしまいます。

本多正信

戦国武将・本多正信です。
徳川家康に仕えていました。

1538年~1616年
策謀をめぐらして智略の限りを尽くす軍師として有名で、あまりいいイメージがない武将です。
しかし、徳川家を内から支え、家康からは非常に気に入られていました。
「一を聞いて、十の心を知る」と言われるほど、主君の心を読み取ることが上手かったそうです。

同じ徳川家家臣である本多忠勝とは親戚関係です。
しかし、忠勝からは「腰抜け」と言われ嫌われていたそうです。
武の忠勝と、智の正信は相容れぬ存在だったのです。

1563年、自身の信仰を重視し、一向一揆に参加し家康と敵対します。
その後10年間、浪人生活をしている間、松永久秀や織田信長と共にいたとされています。
家康の元に帰参してからは、三河武士が不得意であった政治力を発揮します。
関ヶ原の合戦では、小早川秀秋の寝返り指示をしていたのが正信だったとされています。

江口正吉

あまりメジャーではないですが、この方も非常にすぐれた名軍師です。
織田信長の五大将に名を連ねる、丹波長秀に仕えていました。
若くして若狭国吉城代にもなりました。
武勇にも優れ、小谷城の合戦では信長に武勇を褒められるほどでした。

信長の死後、一時は123万石の大名にまでのし上がった丹波氏ですが、秀吉により4万石までの大減封により没落してしまいます。
それにともない、多くの家臣たちが長秀の後を継いだ長重の元を去ります。
しかし、正吉は長重に従い続けました。
抜けた家臣の穴を埋めるために、何人分もの働きをして支えます。
小田原征伐などの功により、12万石の増加をされ見事復活をします。

そんな正吉が仕える丹波家の居城である白河城を、伊達政宗が通ったとき「こんな城落とすのは朝飯前だ」と言いましたが、伊達家の軍師として知られている片倉景綱は「ここには江口正吉という経験豊富で頭の切れる者がいるので決して侮ってはいけません」と諭したそうです。

最強の武力

次に紹介するのは、戦国時代で最強と呼ばれていた武力についてです。
ここでの武力は個人の武力ではなく、一勢力の軍事力的なニュアンスです。
どこにどのような武力組織があったのでしょうか。
最強と恐れられた武力を紹介します。

徳川四天王

~四天王といえばよく名前の挙がるのがこの徳川四天王です。
徳川家康を支え、戦国の乱世を終わらせた徳川家を支えた武力が徳川四天王です。

酒井忠次

三河時代からの家臣であり、家康が人質時代にもそばに仕えていた古参の武将です。
徳川四天王のなかでは最年長です。

本多忠勝

東国一の勇将であり、家康に過ぎたるものと評された天下無双の戦国武将です。
徳川四天王のひとりである、榊原康政とは同じ年で仲も良かったとされています。
姉川の合戦では、1万の朝倉軍に対して単騎で突撃しました。

榊原康政

本多忠勝と共に武を競った猛将です。
しかし、内政面でも手腕を発揮した智勇を兼ね備えた武将です。
非常に達筆なことで有名です。

井伊直政

徳川四天王のなかで唯一古参の武将ではなく、最年少です。
美少年だったそうで、家康のお気に入りでした。
「井伊の赤備え」として有名で恐れられていました。

武田四天王

次は、甲斐の虎・武田信玄を支えた武田四天王です。
こちらも徳川四天王と同じくらい有名です。
天下を掴むほどの一大勢力となった甲斐・武田氏の武力がこの武田四天王です。

山県昌景

「赤備え」を率いて活躍した猛将です。
三方ヶ原の合戦では、徳川家康から「山県という男はなんて恐ろしい」と言われたとされています。
信玄亡き後も勝頼に仕えましたが、勝頼からは疎まれていて、長篠の合戦での撤退の進言も受け入れられませんでした。
全身に17ヶ所被弾しても馬から落ちず、采配を咥えたまま絶命したとされています。
そんな昌景の死を最も悲しんだのは、徳川家康や本多忠勝といった敵対していた武将たちでした。

馬場信春

信虎のクーデターにも参加した古参の武将です。
70回以上戦に出陣していますが、傷ひとつ負わなかったとして有名です。
山県昌景同様、勝頼にも仕えましたが、疎まれていました。
長篠の合戦にて、勝頼を逃がすため殿軍を務め討死しました。

内藤昌豊

信虎のクーデター後、信玄の元を離れましたが、再び呼び戻されました。
多くの功績を挙げていますが、信玄からの感謝状は一枚ももらっていません。
信玄は「昌豊ほどの優秀な者ならば、これくらいの働きは当たり前」だと言っていて、同じ武田四天王の山県昌景も賞賛していました。
昌豊も、昌景、信春と同じく、長篠の合戦にて討死しています。

高坂昌信

知略に長けており、優しく、絶世の美男子だったそうです。
判断力が的確で、三方ヶ原の合戦では、深追いすることの危険を説明して皆を思い止まらせました。
殿軍を務めることが多かったとされています。
他の3人とは違い、長篠の合戦では現地で戦っておらず、信濃で上杉軍の守備についていました。
その3年後、海津城にて病死しています。

上杉四天王

上杉と言えば、やはり軍神・上杉謙信が有名で、謙信の戦国武将最強の武が特に目立っていて、上杉四天王は少し地味なイメージになってしまってますが、徳川や武田と同じくらいの武力を誇っていました。

直江景綱

内政や外交を担当し、謙信の一番信頼する家臣でした。
謙信が出家騒動を起こしたときは、景綱が代わりの政務を任されていたほどです。
川中島では、小荷駄奉行(兵糧や弾薬などを運ぶ)を務めました。

柿崎景家

勇猛果敢な猛将であり、名前を聞くだけで逃げ出す敵もいたほどでした。
家臣のなかでも最強であり、先陣を切り開く切り込み隊長的な役割をしていました。
武勇だけではなく外交面では重要な役割を任されていて、北条氏との同盟にあたり、息子を人質として差し出しています。
主家への絶対的な忠誠がありました。

甘粕景持

謙信がスカウトをして家臣にしたという逸話があります。
川中島の合戦では殿軍を務め、謙信と間違われるほどの見事な働きをしました。
逃げ遅れた兵が追いつくまで待っていたりと、とても情の深い武将でした。
終生上杉家に仕え続け、景持が亡くなってからも子孫は上杉家に仕え続けました。

宇佐美定満

上杉家の軍師として、川中島の合戦での「啄木鳥戦法」を見破ったのはこの定満だとする説もあります。
諸説ある人物ですが、謙信を守るために自身を犠牲に溺死したことでも有名です。

戦国武将の個人的最強伝説

戦国最強の軍師、武力を紹介してきましたが、ここでは個人の強さで名を轟かせた武将を紹介したいと思います。

本多忠勝

戦国武将最強と言えば、この方の名前をまず目にするのではないでしょうか。
徳川四天王にも選ばれていますし、その最強さは本物だったのでしょう。

13歳のときの初陣から数えて57回ほど戦を経験していますが、傷ひとつ負うことなかったとされています。
軽装な鎧を好み、肩から大きな数珠を身につけていました。
最強という名に相応しく豪快な性格でしたが、武勇の優れた者なら敵でも尊敬し、敬意をはらっていたそうです。
長篠の合戦で、武田家の武将が多く討死したことで「この先戦で血が騒ぐことはもうないだろう」と言いました。

娘を真田家の嫡男・信之に嫁がせていて、真田家とは親戚でした。
関ヶ原の合戦で、義理の息子である信之の父・昌幸と弟・信繁の助命嘆願に奔走したと言われています。

晩年、小刀で彫り物をしていると、誤って自分の指を切ってしまいました。
「忠勝も、傷を負ったらお終いだ」と言い、その後亡くなったと言われています。

馬場信春

「不死身の馬場美濃」と呼ばれ最強として恐れられた戦国武将です。
ですが、周囲に気を配りムードメーカー的な役割で場を盛り上げることが上手かったそうです。
槍働きだけでなく、内政にも才能を発揮して智勇兼ね備えた武将でした。

17歳の初陣から70回以上の戦を経験していますが、忠勝同様、傷ひとつ負わなかったと言われています。

信玄亡き後も、後継者である勝頼に仕えましたが、勝頼からは疎まれていました。
長篠の合戦でも、あまりにも無謀な策だと勝頼を説得しました。
代わりの策を提案するも聞きいれられず、撤退を進言しても勝頼には受け入れられませんでした。
信春は主君を逃がすために殿軍を務め、勝頼が無事撤退するのを見届けると、自身は反転し、追撃してくる織田軍と戦い討死しました。

立花宗茂

高橋紹運の長男で、立花道雪の希望により養子になっています。
その後、道雪の娘・誾千代と結婚をし婿養子になりましたが、道雪の死後二人は別居しています。
優れた人柄と器量の良さ、温厚で誠実な忠義に厚い戦国武将です。

九州統一を図る島津家によって、実父の紹運が岩屋城で壮絶な死を遂げ、弟・統増が籠る宝満山城をも落とされ、残るは自身の立花山城のみとなり窮地に陥ります。
その状況を、知略によって退け、その後は武力によって島津軍を追い詰め、ついには弟のいた宝満山城と実父のいた岩屋城を奪還します。
この戦で宗茂は、実父への弔いと戦功を挙げ、島津家の九州統一を阻止しました。

本多忠勝が東国一の猛将と言われているのに対して、西国一の猛将は立花宗茂だと言われています。

関ヶ原で西軍についた武将のなかで唯一、旧領に復帰しているのも宗茂だけです。
それぐらい人柄もよく、日ごろの行いもよく、優秀な人物だったことが伺えます。

70歳を越えても現役で、島原の乱にも参加したとされています。
その6年後に亡くなっています。

戦国一、最弱武将

ここまで「最強」をキーワードとして戦国武将の紹介をしてきました。
ここでは逆の「最弱」をキーワードに戦国武将を紹介していこうと思います。
弱いといっても、単純に弱いだけでは終わらないのが戦国の時代を生き抜いた武将です。

山中幸盛

「山陰の麒麟児」との異名をもつ、尼子家に仕えた戦国武将です。
尼子家は長年、毛利家との戦いが続いており、その毛利家との戦いにおける武の要だったのがこの幸盛です。

ですが、毛利家に敗北し尼子家は一時滅びてしまいます。
そんな尼子家再興を掲げ続け尽力したのもこの幸盛でした。
幸盛は、各地にバラバラになった尼子家の遺児や遺臣たちを探して集めました。

1570年、布部山の合戦で敗北します。
その後、毛利元就が重病になり、手薄になったことで再び勢力を増しますが、また敗北。
翌年も、最後の拠点となった新山城が落城し、ついに幸盛は捕縛され幽閉されてしまいます。
ですが、そこから脱走します。
信長の援助を受け上月城で再び再興しますが、織田軍が自国の防衛のため撤退してしまいます。
孤立した幸盛は誅殺され、完全に尼子家は滅びることになりました。

何度負けても毛利家に挑み続ける姿がなんとも天晴です。
華々しく勝つ戦ばかりが目につきがちですが、こういった不屈の魂で強敵に立ち向かっていく様はなんとも清々しいですね。

小田氏治

この方、歴史好きの方の間では結構人気のある戦国武将です。
おだはおだでもあの「織田」ではなく「小田」です。

氏治は、関東にある小田城を居城にしていました。
1556年、佐竹義昭の協力を受けて、結城政勝へ攻撃を開始しました。
しかし、北条氏康が政勝へ協力したことで敗北してしまい、居城である小田城を奪われてしまいます。
その半年後、北条家と和睦に至り小田城奪還します。

ですが翌年、多賀谷政経を義昭と共に攻めましたが、これに敗北しまたもや小田城を奪われます。
翌年、小田城奪還のため出陣しましたが敗北します。
翌年にようやく奪還しますが、また奪われてしまいます。

1590年、まだまだ諦めない氏治は、小田城奪還のため佐竹家へと攻撃を開始します。
しかし、世は秀吉による小田原攻めが行われていました。
秀吉は各武将たちに協力の要請をします。
もちろん氏治にも要請がありましたが、何せ氏治は悲願の小田城奪還のための戦中でした。
しかし、相手の佐竹家は小田原攻めへ協力しており、そんな協力をしていた佐竹家へ攻撃をした氏治は秀吉の怒りを買ってしまいます。
そして、秀吉によって小田氏は滅びてしまいます。

そんな氏治ですが、娘が結城秀康の側室だった縁で客分として迎えられ、1602年まで生きました。

先ほどの山中幸盛と同じく、この小田氏治という人も何度負けても諦めません。
何度城を奪われようとも、何度でも挑み城を奪い返します。

そして何より、氏治は家臣や領民にとっても好かれていたそうです。
城を奪われている間、領民は新領主に屈さず、更には氏治の元へわざわざ年貢を納めに行っていたとまで言われています。
家臣は何度負けてバラバラになっても、そのたびに集まり忠誠を誓っていたそうです。
なぜか放っとくことができない人というのは存在しますが、氏治はまさにそんな放っとけないタイプの人だったのかもしれません。

ちなみにあの織田信長と同じ年です。

戦国武将から見る強さとは

最強というキーワードで、いろいろな戦国武将の強さを紹介してきました。
戦国武将というのは、華々しい勝ち星を挙げていった姿を取り上げられることが多いです。
もちろんそこには比類なき武将としての強さがあり、それもまた戦国武将としての魅力として語り継がれています。
ですが、最後に紹介したような、強敵を前にしても決して屈せず、何度負けても諦めない姿もまた強さです。
戦に勝つ強さもあれば、弱くても諦めない強さもあります。
そういう歴史を語り継ぐのも大事なのかもしれません。

「戦国武将・最強」に関連する記事

「戦国武将・最強」についてさらに知りたい方へ

この記事に関するキーワード

ランキング

よく読まれている記事です

シェアする

関連する記事

「戦国武将・最強」についてさらに知りたい方へ

戦国最強の武将は誰だ!?同世代に恐れられた最強の武士たちのサムネイル画像

戦国最強の武将は誰だ!?同世代に恐れられた最強の武士たち

上杉謙信の謎多き家臣団、軍神を支えたもののサムネイル画像

上杉謙信の謎多き家臣団、軍神を支えたもの

国内・外でも人気の高い戦国武将!!その理由とは!?のサムネイル画像

国内・外でも人気の高い戦国武将!!その理由とは!?

武田信玄家臣団「武田二十四将」の逸話を厳選してご紹介のサムネイル画像

武田信玄家臣団「武田二十四将」の逸話を厳選してご紹介

武田の有名な武将たち二十四将どれだけ凄かったのかまとめましたのサムネイル画像

武田の有名な武将たち二十四将どれだけ凄かったのかまとめました

人気のキーワードの記事一覧

キーワード記事一覧へのリンクです

ランキング

よく読まれている記事です

盛り塩の「効果」とその「処分方法」は?「交換時期」も教えますのサムネイル画像

盛り塩の「効果」とその「処分方法」は?「交換時期」も教えます

1
水引アクセサリーの簡単な作り方!和服にも合う結び方を紹介!のサムネイル画像

水引アクセサリーの簡単な作り方!和服にも合う結び方を紹介!

2
礼服のポケットのふたとポケットチーフについて紹介します。のサムネイル画像

礼服のポケットのふたとポケットチーフについて紹介します。

3
お参りとお詣りの意味の違い~神社は?お寺は?のサムネイル画像

お参りとお詣りの意味の違い~神社は?お寺は?

4
おしゃれな御朱印帳ならこれ!おすすめの御朱印帳をご紹介しますのサムネイル画像

おしゃれな御朱印帳ならこれ!おすすめの御朱印帳をご紹介します

5

目次

目次です

このページの先頭へ

終活ねっと 〜マガジン〜  Copyright© 株式会社 終活ねっと