加藤清正とは
加藤清正は戦国末期に活躍した武将で、NHKの大河ドラマなどでも有名です。また、豊臣秀吉の子飼いの家臣の一人で、賤ヶ岳の七本槍他の武闘派の武将とされています。さらに関ケ原の戦いでは徳川家康の東軍につき、その功績から熊本藩52万石の大名となりました。そして、最後まで徳川家と豊臣家の和解に心をくだいていました。
そして、加藤清正といえば、昔から朝鮮半島での虎退治が有名です。しかし、これは江戸時代に書かれた「絵本太閤記」に書かれた後世の作り話だそうです。
加藤清正の最後

加藤清正の死
加藤清正が亡くなったのは、慶長16年(1611年)で享年50才でした。二条城での徳川家康と豊臣秀頼との和解を斡旋した後、帰国途中の船内で発病し、熊本で亡くなったそうです。熊本藩52万石は、清正の三男忠広が継いだのですが、寛永9年(1632年)には改易となってしまいました。
原因は諸説ありますが、熊本藩が外様大名の大きな藩だったことから、老中・土井利勝が罠にはめて取りつぶしたというのが定説です。
記録に残る加藤清正の子孫
熊本藩を改易になった後、加藤忠広の身柄は今の山形県にあった庄内藩酒井氏預かりになり、今の鶴岡氏丸岡に移り住み、ここで亡くなりました。なお、忠広には正室との間に2人の男と1人の女の子供がいましたが、いずれも子孫を残さずに亡くなり、正統な子孫はここで絶えてしまいます。
山形での加藤忠広
加藤忠広とは
加藤清正の跡を継いだ加藤忠広は、清正の三男として生まれましたが、2人の兄が幼くして亡くなったことから跡継ぎとなり、わずか11才で熊本藩を引き継ぎました。そして、寛永9年(1632年)には改易となり、身柄を庄内藩預かりとなりました。そして、今の山形県鶴岡市で53才で亡くなりました。
生前は、歌を詠んだり、音曲を奏でたりして、意外と優雅な生活だったようです。また、数人の小姓に囲まれ、奥では母や妻、さらには愛妾・侍女に囲まれて、何不自由なく過ごしたとのことです。
金照山本住寺
山形県鶴岡市の本住寺には、加藤忠広とその母にあたる加藤清正夫人の墓があります。350年以上前に建てられたの2人の墓は以外と質素で、今は土蔵造りの霊屋の中に置かれています。
本住寺の基本情報
【住所】 〒997-0821 山形県鶴岡市三光町1-46
【TEL】 0235-22-7873
【アクセス】 鶴岡駅からバスで15分
丸岡城跡史跡公園・天澤寺
加藤忠広が暮らしたのは、鶴岡市の市街地南側の田園地帯にあたる、かつて丸岡城に隣接した場所でした。丸岡城は今は公園として整備されており、加藤忠広の邸宅跡は天澤寺となっています。天澤寺には、加藤清正公を祀った五輪塔などがあり、加藤清正ゆかりの場所として遠く九州から参拝に訪れる人もいるそうです。
天澤寺の基本情報
【住所】 山形県鶴岡市丸岡字町の内36
【TEL】 0235-57-2252
【アクセス】 鶴岡駅から車で15分
山形で生まれた庶子の子孫
加藤忠広には、山形県鶴岡市で生まれた2人の庶子がいたそうです。このうち1人の子孫は、大庄屋・加藤与治左衛門家としてつい最近まで続いていました。今はその本家は断絶してしまいましたが、鶴岡をはじめ日本全国に加藤清正の子孫を名乗る加藤姓の人が多数います。
加藤清正の庶子
貴田玄蕃は加藤清正の庶子
加藤清正には、加藤十六将と言われる優れた家臣が従っていました。そのうちの1人とされる貴田孫兵衛の跡を継いだ貴田権内は、加藤家に代わって熊本藩に入った細川家の家臣となっています。その弟の貴田玄蕃は、加藤清正の庶子という記録があります。
貴田玄蕃または貴田正勝は尼崎藩に召し抱えられ、その子孫にあたる貴田元親は青森県にあった津軽藩で活躍した記録があるそうです。
貴田玄蕃の皿屋敷
尼崎にあった貴田玄蕃の屋敷には、御膳の中に針が混じっていた事を理由に、侍女お菊が 折檻され、井戸に投げ込まれ、それ以後お菊のたたり為、誰も住まなくなったという話があるそうです。この井戸とされるのが、今も尼崎の深正院にあるそうです。
深正院の基本情報
【住所】 所在地兵庫県尼崎市大物町2-8-26
【TEL】 電話06-6488-5191
【アクセス】 阪神なんば線 大物駅から徒歩5分
加藤清正の子孫の酒造会社
鶴岡は酒造りの盛んな土地
鶴岡での加藤清正の子孫、大庄屋・加藤与治左衛門家には多くの分家があります。そして、山形県でも米どころと知られる庄内にある鶴岡は、昔から酒造りの盛んな土地です。そのため、鶴岡には加藤清正の子孫を名乗る造り酒屋もあります。
加藤清正の子孫の作る鶴岡の地酒はいかがでしょうか。
冨士酒造株式会社

【住所】 〒997-1124 山形県鶴岡市大山三丁目32-48
【TEL】 0235-33-3200
加藤嘉八郎酒造(株)
【住所】 〒997-1124 山形県鶴岡市大山3丁目1-38
【TEL】 0235-33-2008
まとめ
加藤清正の子孫のまとめはいかがだったでしょうか。加藤清正は、名古屋に生まれ、九州の熊本で亡くなりました。そしてその子孫は全く方向の違う東北の鶴岡で大地主になり、その分家の子孫は今も地酒を造っています。また、加藤清正の子孫が番町皿屋敷のモデルになったかも。ぜひ、鶴岡の地酒を傾けながら、そんな歴史のミステリーを楽しんでみてください。