史上有名な関ヶ原の戦いの戦死者数8000人について!

日本史上最大の会戦・関ヶ原の戦いは動員兵力18万人、戦死者は8000人といわれています。一方で有名な第4次川中島の戦いは動員兵力3万3千人、戦死者は7000人といわれています。今回は両合戦を比較して関ヶ原の戦いについて考えたいと思います。

目次

  1. 戦国時代の戦いはどのようなもの
  2. 戦死者激増のパターン
  3. 第四次川中島の戦い
  4. 関ヶ原の戦い
  5. 最後に
  6. 終活の専門家に相談してみよう

戦国時代の戦いはどのようなもの

関ケ原の戦い

戦国時代の戦いはなんでもありの激戦ばかりというイメージですが実際は少し違って源平合戦のように戦いのルールが様々とありました。

まず、両軍出会い頭ですぐに戦うということはあまりなくて両軍共に勝鬨をあげて罵倒しあってから戦い始めたそうです。また、日本の地形は平野部がかなり限られるので進軍ルートの予測が簡単であったために桶狭間の戦いのような奇襲戦は滅多になかったようです。

最初は弓、鉄砲での射ち合いから始まり、勝負がつかない場合は白兵戦となりました。戦力に差があり過ぎると弓、鉄砲での勝負で終わることも珍しくなかったようです。当時は雑兵が主戦力だったので不利になるとすぐに逃亡してしまうので戦死者はかなり少なかったようです。
戦いの勝者も執拗な追撃、皆殺しは行わないで降伏勧告を行い無駄な殺生を行っていなかったようです。
では戦死者が多い場合はどのような時だったんでしょうか?

戦死者激増のパターン

戦国

戦死者が多かった戦いにはいくつかのパターンがありました。

①執拗な追撃戦による戦死者
②包囲殲滅戦による戦死者
③不軌遭遇戦による戦死者

と大別できます。
最も戦死者が多くなるパターンとしては②包囲殲滅戦となります。日本では平地が少ないという理由もあって籠城した側が包囲殲滅されるぐらいでしかないので非常に少ないパターンとなります。
どれくらいの戦死者になるかというと古代ローマ・カンネの戦いを例にすると
カルタゴ将軍ハンニバル率いる50000人がローマの軍勢80000人をカンネの戦いで包囲殲滅してローマ軍の戦死者60000人、捕虜10000人と云う戦果を出して圧勝をした会戦です。ハンニバル軍は戦死者が5000人くらいでした。

そして①執拗な追撃戦の例が長篠の戦いで一説によると長篠の本戦では武田軍の戦死者は1500人程で追撃戦による死者が7000人前後と云われています。織田軍も相当な死傷者を出したらしいです。
また、一説によると関ヶ原の戦いも追撃戦による戦死者がかなりの人数であったと云われています。
③不軌遭遇戦の例が第四次川中島の戦いとなります。

第四次川中島の戦い

川中島の戦いは武田信玄と上杉謙信が信濃領有を巡って12年間の間に5回の戦いが行われました。
実際に戦闘が行われたのは第二次の犀川の戦いと第四次の八幡原の戦いでした。

戦いの経緯

第四次川中島の戦いではしばらく両軍共に睨みあいとなっていましたが士気の低下を恐れた武田信玄がこの膠着状態を嫌い先に動き出します。
武田信玄は高坂昌信率いる12000人を別動隊として上杉謙信の本陣がある妻女山を攻め込ませて山を降りた先で武田信玄率いる本軍8000人が待ち伏せをするという有名な「啄木鳥戦法」を行います。
上杉謙信はこの戦法を読み切り、裏をかいて武田信玄本軍に奇襲を行います。両軍、乱戦になり高坂昌信率いる別動隊8000人が到着するまでは上杉軍が優勢で武田信繁等が打ち取られます。別動隊の到着後は武田軍優勢となり上杉軍は善光寺に引き上げて戦いは終結します。

戦死者等、結果は?

この戦いで武田信玄の動員兵力が20000人で戦死者が4000人、上杉謙信の動員兵力が13000人で戦死者が3000人と云われています。動員兵力33000人に対しての戦死者数7000人は殺傷能力の低い兵器しかない時代において類のない激戦であったといわれています。
この戦いの結果はどちらも被害甚大で両者共に引き分けといわれています。

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いは1600年、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍との戦いで勝利者となった徳川家康の天下取りが決定的になった戦いでした。

関ヶ原の戦いの決戦前夜

豊臣秀吉晩年の政権下、福島正紀等を中心とした武断派と石田三成等を中心とした文治派の対立がありましたが表面化はせずにいました。1598年豊臣秀吉死後も前田利家の求心力によって何とか表面化せずにいましたが1599年前田利家が亡くなると両派閥の対立は表面化し決定的となってしまいます。

会津征伐から関ケ原の戦いに

石田三成は親友でもある直江兼続と密約を交わし上杉景勝が徳川家康に対して挙兵し、徳川家康が上杉景勝と戦っている間に大阪で挙兵して東西から挟撃しようとします。
徳川家康は石田三成挙兵の報を聞くと結城秀康、最上義光等を上杉景勝の抑えとして西に引き返します。
徳川家康は徳川秀忠に38000人を率いさせて中山道から西上を命じて自らは33000人を率いて東海道を大阪方面へと西上します。徳川秀忠率いる38000人は真田昌幸、幸村親子に足止めされて関ヶ原の戦いの本戦に間に合わなくなります。

関ヶ原の戦いの本戦

戦国

関ヶ原の戦い 両軍兵力

西軍総兵力 83200人
石田三成等主力軍 35500人
松尾山方面軍(裏切った小早川秀秋等) 19800人
南宮山方面軍(戦いに参加しなかった) 27900人

東軍総兵力 89000人
東軍第一陣 25500人
東軍第二陣 19500人
予備軍(徳川家康) 30000人
南宮山方面軍 14000人

開戦、そして決着

関ヶ原の戦いでは序盤から中盤にかけて西軍主力軍の士気の高さなどもあって両軍共に膠着状態が続いていたようです。戦局が変化したのは松尾山に布陣していた小早川秀秋率いる15000人が裏切って東軍についたことから一気に東軍優勢となって西軍は敗北します。

戦死者等は?

関ヶ原の戦いの戦死者は一般的には8000人と云われていますが一方では32000人ともいわれています。関ヶ原の戦いでは実際に戦った兵力が西軍35500人に対して東軍45000人、裏切った西軍20000人程なので戦死者8000人が妥当な数字と思われます。
関ヶ原の戦いは布陣図だけを見れば西軍が三方向にわたって東軍を包囲して包囲殲滅が完成間近で圧倒的な勝利寸前となっています。戦況が大きく傾くまでは西軍、東軍が互角であり、その後は一気に敗走となった点を考慮すれば、本戦での戦死者は両軍変わらず、敗走後の戦死者が主たる要因といわれています。

戦死者

最後に

関ヶ原の戦いは20万弱の兵が激突したには戦死者が8000人と少なく、第四次川中島の戦いでの戦死者7000人と比較すると激戦ではなかったといわれています。
第四次川中島の戦いが類にない激戦であったこと、関ヶ原の戦いで実際に戦っていた兵数が80000人程での戦いであったこと、戦死者も敗走による追撃が主であったことを考慮すると激戦であったとはいえなかったかもしれません。
とはいっても徳川家康の天下取りを決定づけた日本史上、最も重要な戦いであったことは確かであった思います。

終活の専門家に相談してみよう

「身近な人が亡くなったらどうしたらいいの?」「終活とは具体的にどんなことをしたらいいの?」「誰か詳しい人に直接相談したい!」と思われる方もいらっしゃると思います。
終活ねっとを運営するにあたり、【お墓・葬儀・仏壇・介護・相続・保険・遺品整理】などなど様々な分野の専門家の方に協力していただいております。
また、それぞれの専門家の方が

  • どのような事をなさっているのか?
  • どんな想いでお仕事をなさっているのか?
  • どのような特徴があるのか?

などを、記事形式で紹介しております。

専門家のページはこちらから

シェアする

「関ヶ原の戦い・戦死者」に関連する記事

「関ヶ原の戦い・戦死者」についてさらに知りたい方へ

  • 天下分け目の戦、関ヶ原の戦いで伊達政宗はどこにいた?

    天下分け目の戦、関ヶ原の戦いで伊達政宗はどこにいた?

    日本における最大級の戦で、天下分け目の大戦である関ヶ原の戦いは西軍と東軍に別れての戦いとなります。しかし、その中でも伊達政宗のような有名武将がこの戦いの中にいないのです。関ヶ原の戦いで伊達政宗はどこにいたのでしょうか。

    1
  • 武田の有名な武将たち二十四将どれだけ凄かったのかまとめました

    武田の有名な武将たち二十四将どれだけ凄かったのかまとめました

    名だたる武将には、名の残る家臣がいるものです。武田二十四将も後世に付けられた名ではありますが、武田の家臣団にも優れた武将が揃っていたことになります。二十四将は時に、選ぶ人によってメンバーが変わるようです。二十四将の中から主だった武将を選んでみました。

    2
  • 天下分け目の戦、関ヶ原の戦いで伊達政宗はどこにいた?

    天下分け目の戦、関ヶ原の戦いで伊達政宗はどこにいた?

    日本における最大級の戦で、天下分け目の大戦である関ヶ原の戦いは西軍と東軍に別れての戦いとなります。しかし、その中でも伊達政宗のような有名武将がこの戦いの中にいないのです。関ヶ原の戦いで伊達政宗はどこにいたのでしょうか。

    3

この記事に関するキーワード

ランキング

よく読まれている記事です

このページの先頭へ

終活ねっと 〜マガジン〜  Copyright© 株式会社 終活ねっと