「英雄」織田信長が後世の歴史に与えた影響と衝撃

戦国時代に限らず、日本の歴史を語る上では欠かせない人物の一人である織田信長。その生き様は多くの人の共感と感動を呼び、今日ではドラマにゲームといったメディアにも登場し、更なるファンを集めています。そんな織田信長が後世の歴史に大きな影響を与えた出来事を紹介します。

目次

  1. 歴史が生んだ英雄織田信長
  2. 戦争の歴史を変えた織田信長
  3. 九死に一生の大ピンチだった信長包囲網
  4. 歴史に残る城となるはずだった安土城
  5. 今でもファンを増やし続ける織田信長

歴史が生んだ英雄織田信長

織田信長

戦国時代を代表する武将であり、今でも根強い人気を誇るのが三英傑の一人である織田信長です。

武将としてだけでなく、政治家としても手腕を発揮し、誰にも真似の出来ないであろう生き様は歴史が生んだ英雄として織田信長に憧れ、尊敬する人は毎年のように増え続けています。

今回は、織田信長が後の日本の歴史に大きな影響を与えた出来事を紹介します。

戦争の歴史を変えた織田信長

長篠の戦い

織田信長が鉄砲隊を起用した長篠の戦いは日本の戦争の歴史を変えました。

今川義元との圧倒的不利な戦力差を覆し勝利した桶狭間の戦いなど、織田信長は戦の天才というイメージがありますが、1575年に起きた長篠の戦いでは鉄砲隊をする起用など日本の戦争の歴史に残る革命と言うべき戦術を編み出しています。

鉄砲隊とは

かねてから海外に興味を持っていた織田信長は当時の武器の最先端だった鉄砲を自軍に導入し、数には諸説ありますが長篠の戦いに於いて1000~1500丁は用意していたと言われています。

また、これまでの説では織田信長は鉄砲隊を3グループに分け、装填と射撃を繰り返し武田軍の騎馬隊を打ち破ったと言われていますが、最近の研究ではいわゆる三段撃ちはなかったと言われているので、下記の項で改めて紹介します。

最近の歴史研究による事実

長篠の戦いで登場し、日本の戦争の歴史を変える大革命となった鉄砲隊ですが、織田信長に関する最も有名な歴史書である信長公記では鉄砲奉行と呼ばれる5人の武将が指揮を取ったと書いてあるだけで、一斉射撃で武田軍に大損害を与えるなど鉄砲を有効活用したのは事実にせよ、有名な三段撃ちが本当に行われたかは疑わしいというのが実情です。

また、鉄砲のスペックに関しても命中率や射程距離など現在より数段劣っていたのも事実ですが、1000丁という破格の数の鉄砲があれば馬や敵軍に混乱を与えるのは難しい事ではなく、しかも織田・徳川連合軍は武田軍よりも兵力で大きく上回っていたため勝利は必定だったといえます。

それでも、鉄砲隊の導入は日本の歴史に残る出来事であり、織田信長の生涯でも五本の指に入る大勝利となりました。

九死に一生の大ピンチだった信長包囲網

織田信長といえば優れた戦術眼で自分の軍を勝利に導く戦の天才というイメージがありますが、当然ながら天下布武の道は簡単なものではなく、織田信長も何度も命の危険に晒される事がありました。

織田信長のみならず織田家存亡の危機と言っても過言ではなかった大ピンチが、三度に渡って行われた信長包囲網です。

第一次信長包囲網

まず、第一次信長包囲網が起きたきっかけとして1568年に織田信長が室町幕府15代将軍である足利義昭の後見人になった事に始まります。

そして、織田信長は将軍の名を使って各地の大名に上洛を促すものの、越前の朝倉義景はこれを無視したため両者の関係は悪化、1570年に織田信長は朝倉家に攻撃を仕掛けますが、婚姻による同盟関係にあった浅井家の裏切りに遭い撤退を余儀なくされます。

しかも、三好に六角といった他の大名に加え、石山本願寺勢に伊勢長島一向一揆衆といった勢力も加わり織田信長は常に敵対勢力からの攻撃を受ける厳しい状況となります。

戦争の勝利、及び敵対勢力の鎮圧は不可能と判断した織田信長は各勢力との和睦に尽力し、10月の本願寺との和睦を皮切りに次々と和睦交渉を纏め、最後には浅井、朝倉家とも和睦を成立させ何とか窮地を脱しました。

第二次信長包囲網

第一次信長包囲網からほどなくした1571年、織田信長との関係が悪化していた足利義昭は織田信長の力を弱めるために浅井、朝倉、六角、石山本願寺、延暦寺といった第一次信長包囲網に参加した勢力に再度呼び掛け包囲網を形成します。しかも、第二次包囲網では甲斐から武田信玄も加わるなど連合勢力は更に強大化していました。

しかし、苦戦を強いられた前回と違い第二次では織田信長が大半を有利に進めており、三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗したものの1573年の武田信玄の病死により敵対勢力は一気に力を失い、発起人である足利義昭は自ら挙兵するもあえなく織田信長の前に敗れ京から追放され、室町幕府は滅亡します。(また、後世に伝わる延暦寺の焼き討ちはこの頃に行われています)

織田信長は残された敵対勢力である朝倉義景、浅井久政、長政を討って大勢を決定付け、最終的に残った松永久秀、顕如とも和睦を結び二度目の危機も無事に切り抜けました。

第三次信長包囲網

1576年、毛利家の庇護下にあった足利義昭は幕府再興を諦めておらず三度目の包囲網形成を行います。

この呼び掛けに本願寺、上杉謙信、武田勝頼、毛利輝元、宇喜多直家、更には雑賀衆といった各勢力が応じ、規模としては最大級の包囲網が形成されました。

とはいえ、これまでのように大きく苦戦を強いられた訳でもなく、何度か敗戦は喫したものの最大の脅威だった上杉謙信が病死して連合から離脱してから残る敵対勢力は毛利軍と武田軍のみとなり、しかも武田軍は織田信名によって滅ぼされ中国の毛利軍も羽柴秀吉の活躍によって窮地に陥るなど包囲網の崩壊は時間の問題となっていました。

ですが、明智光秀による本能寺の変によって織田信長がこの世を去り、既に半分崩壊しているような状態だった第三次信長包囲網は羽柴秀吉と毛利家の和睦によって自然消滅する事となりました。

歴史に残る城となるはずだった安土城

織田信長の城として最も有名であり、自身の掲げる「天下布武」を体現していてたと伝えられているのが滋賀県の安土山にあったとされる安土城です。

本能寺の変の後に焼け落ちてしまい、今となっては城跡が残るのみですが、織田信長が居住していたとされる天主は全体が金色に包まれるほど豪華だったと言われており、本能寺の変の後に謎の消失をするまで次世代の城として圧倒的な存在感を誇っていました。

また、安土城で特筆すべきは戦闘ではなく居住に重点を置いて設計された事であり、織田信長が天下を統一していれば天下人の城として間違いなく日本の歴史に残る名城になっていたと思われます。

今でもファンを増やし続ける織田信長

信長

もしも本能寺の変がなく、織田信長が天下を統一していたら日本の歴史はどう変わっていたのかという話題は歴史ファンの間では長い間議論の的となっており、また、誰にも真似の出来ない激動の人生は今でも多くのファンを生んでいます。

コーエーテクモゲームスから発売される歴史シミュレーションゲームの定番である信長の野望シリーズでも最強クラスのステータスを持った武将として登場し、当然ながらシリーズの主人公としてトップの人気を誇っています。

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