天下統一を目指した戦国武将・織田信長と数々の愛刀たち

天下統一を目指した戦国武将・織田信長。彼は沢山の刀を所持していました。今回はそんな織田信長と彼が愛した刀を数振紹介します。

目次

  1. 戦国武将・織田信長の一生
  2. 織田信長が残した逸話
  3. 織田信長が所持していた刀
  4. 織田信長が家臣へ与えた刀
  5. 織田信長と刀

戦国武将・織田信長の一生

織田信長

織田 信長は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名で三英傑の一人です。

生涯

織田信長誕生から尾張統一

織田信長は1534年、尾張勝幡城で生まれ、那古野城で育ちました。
幼名は吉法師で、父は尾張下四郡を支配する清洲城主織田家の家老織田信秀です。

1546年元服して織田三郎信長と名乗りました。
父 信秀の死にり18歳で家督を継ぎ、自ら上総介を称します。
この頃の信長は、好んで異様な風体をしたり、粗暴な振る舞いが多かったため「大うつけ者」の評判が高くありました。
そのため織田家の家臣や一族には信長から離反するものも多く出ました。
お傅役の平手政秀は、自身の死をもって信長を諫めました。
信長はそのことをも深く悔悟し政秀の死をいたんで政秀寺を建立し、菩提を弔いました。
 
その後、信長は尾張国内の反対勢力を一掃するための統一行動を起こします。
まず、松葉・深山両城の織田氏を攻略し、下四郡の中心地 清洲城の織田信友を滅ぼします。
そして清州城に本拠を移しました。

さらに信長に反逆を企てていた弟の信行を清洲城内で謀殺します。
1559年には、尾張上四郡の主城・岩倉城の織田信賢を降して、ほぼ尾張一国をその支配下に収めます。
信長はこの尾張統一の過程で鉄砲と長槍で武装し、信長の手足となって動く強力な家臣団の編成が進みました。

1560年には「東海の雄」と言われた駿河・遠江・三河の大守 今川義元の大軍約2万5千人をわずか2千人程度の兵で田楽狭間に襲撃し、義元の首級を挙げました。
これが有名な桶狭間の戦いです。
この戦いで信長の武名は一躍四方に轟きました。

美濃戦略

1562年今川氏の支配を脱した三河の松平元康(のちの徳川家康)と盟約を結びます。
そして元康に東方の防衛を委ね、信長は西方進出を図り美濃攻略を開始します。
このため1563年に清洲城から居城を小牧山に移し、美濃の斎藤竜興とその後激しい攻防が繰り返されました。

信長は小牧山城を築いて美濃攻略の拠点とし、東美濃にある斎藤方の諸城を攻め落とします。
その厳しい戦いぶりに、美濃の土豪たちは酷く動揺します。
とくに西美濃の土豪の中には、信長に誘われればなびこうとする動きが見えだしたからです。
 
1567年斎藤氏の有力家臣であった西美濃三人衆の稲葉一鉄・氏家ト全・安藤伊賀守が信長に味方することを申し出ました。
信長はこのことを聞くや、三人からの人質を受け取る前にすぐに木曽川を越えて稲葉山城に殺到しました。
火を稲葉山城下に放って城を孤立させ、包囲の体制を整えて攻撃を開始しました。
稲葉山城は、援軍の来る見込みのない“はだか城”です。
龍興はついに降服を申し入れ、信長に稲葉山城を明け渡し長良川を船で下り、伊勢長島へ退きました。
実に10年間に及ぶ信長と龍興の攻防の末、稲葉山城はついに落城したのです。
長井新左衛門尉(道三の父)・斎藤道三・義龍・龍興と続いた「後斎藤氏」の美濃支配の時代は終わりました。

天下統一を目指して

1576年信長は将来の飛躍に備え、近江の安土に居城を築いて移ります。
城は七層造り天守閣を持つ本格的な城郭で、その豪華さに人々は驚きました。
信長は城下町の繁栄を図るために13ヶ条の掟を公布し、城下を楽市とするとともに様々な特権を与えて商人の誘致を図りました。

安土城に移った信長は官位も次々に進み、内大臣から右大臣、そして1577年には正二位に叙せられました。
信長の天下統一事業も、1580年羽柴秀吉により三木城が落城し、長年信長に頑強に抵抗していた石山本願寺も顕如が降伏して畿内も平静になりました。

1582年2月甲斐の武田氏を滅ぼした後、同年5月備中高松城を包囲して毛利勢と対峙していた秀吉から救援要請を受けて、信長は5月29日安土城をたって上洛し本能寺に泊まります。
しかし6月2日の未明、家臣の明智光秀の襲撃を受けて自刃しました。
信長享年49歳でした。

織田信長が残した逸話

死のうは一定

信長といえば敦盛が高名ですが、それと同じくらい好んで口にした小唄があります。

死のうは一定
忍び草には何をしよぞ
一定語り起こすよの

これは人間誰にも等しく死が訪れるものだ。
自分が死んだ後も語り継がれるためには何をすればいいのだろうか。
もし何か(しのび草を)残すことができれば、後世の人々はそれをよすがに語り継いでくれることだろう。
というような意味だと解されています。
「忍び草」は「偲び草」のことで、亡くなった故人を思い慕うたねとなるもののことを指します。
現在では香典返しに書く場合があります。

織田信長が所持していた刀

実休光忠


銘 光忠
名物 実休光忠
長二尺三寸
備前長船光忠の作
古くは「三雲光忠」とも。
刃長二尺三寸(70cm)
享保名物帳の焼失之部に記載されています

由来

元は江州甲賀郡の三雲城主三雲対馬守定持の所持したものといわれています。
その後、愛刀家であった三好義賢入道実休が入手し「三雲光忠」と呼んだといいます。
久米田の戦いで実休が討死した時に敵将の畠山高政がこれを分捕り、1568年に信長に献上します。
その後「実休光忠」と呼ばれました。

来歴

はじめ三雲定持が所持していました。

のち三好実休(義賢)が入手。

1562年3月5日久米田の戦いにて、実休が泉州南郡八木の久米山寺で流れ矢に当り陣没しました
その時の敵将であった畠山高政がこれを分捕ります。
畠山高政はその後1568年に上洛した信長に拝謁し、この光忠を献上し旧領の一部が安堵されました。

1580年2月22日に津田宗及らが安土城でこの光忠を拝見しています。

本能寺の変で自害した織田信長が最後に振るった刀で、奮戦したため切込みが十八ケ所も出来ていたと言われています。
本能寺の変後、光忠は焼身でみつかりました。
秀吉が信長の形見として焼き直し愛刀にしたといいます。
しかし豊臣家御腰物帳では「七之箱下之御太刀」に納められました。
大坂落城後は焼身として家康に献上されました。

エピソード

織田信長は華やかな光忠の作を特に好み蒐集したとされています。
信長は1580年、堺の豪商らを安土城に呼び付け自慢の二十五腰の光忠を見せました。
目利と言われる木津屋に実休光忠はどれか当てさせたところ、木津屋が見事当てます。
信長が理由を尋ねると、「実休が最期の時根来法師の往来左京の脛当を払ったために切先の刃が少しこぼれた」という話を聞いており、それを元に当てたといいます。
信長は大いに喜び常の差料として愛用していました。

薬研藤四郎

短刀
薬研通吉光
八寸三分
粟田口藤四郎吉光の作
享保名物帳所載(ヤケ)

由来

「藤四郎吉光の短刀は、切れ味は抜群だが主人の腹は切らない」という言い伝えがあります。
これは1493年の明応の政変で河内正覚寺城を包囲された畠山政長が、我が子尚順を逃した後この薬研藤四郎で自害しようとしました。
しかし、どれだけやっても腹に刺さらず政長は腹を立てて薬研藤四郎を投げつけました。
すると、薬研に表裏を貫いて突き刺さったことからこの名がついたといわれています。

薬研とは、漢方薬などを作る際に薬種を細かくするのに使う道具のことです。

来歴

元は足利義満の佩刀でした。

その後、本能寺の変の際に安土城より持ち出されていたました。
しかし、坂本城に包囲された左馬助が不動国行の太刀・二字国俊とともに天守から投げ下ろして堀秀政に託したといいます。
後に豊臣秀吉に献上され、秀頼が秘蔵したといわれています。

ただし「豊臣家御腰物帳」に記載されていない事を考えると、秀頼には相伝されなかった可能性もあります。
薬研藤四郎は足利将軍家・織田信長と伝わった名物であり、几帳面な片桐且元が書き漏らすことは考えにくいからです。
1588年の石田本に記載がありますが、1600年からの御腰物帳に記載がないことから、この間に豊臣家を出た可能性があります。
しかし、それにも関わらず1615年の埋忠本に記載がある点についてはよくわかっていません。
なお埋忠本では大坂の役で焼けたものについては「ヤ」と記しますが、薬研藤四郎については記されていません。
つまり大坂の役では焼けていないということになります。

薬研藤四郎は1615年5月大坂落城後に行方がわからなくなっていましたが、河内の農民が拾い本阿弥又三郞が入手し金百両にて家康に献上しています。
しかし、これは同じ藤四郎吉光作ということで、「薬研藤四郎」と「骨喰藤四郎」を混同した可能性が高いです。

その後の行方は不明となっています。

不動国行

太刀
銘 国行
刃長一尺九寸三分五厘
来一門の実質的な開祖である来国行の作

由来

岩上立不動明王の浮彫があったためといわれています。

来歴

1554年に狩野介が相州康春に模造させています。

足利将軍家が所蔵していましたが、1565年永禄の変の際に松永弾正が分捕ります。

松永弾正が1573年正月10日、岐阜にて「不動国行」と「薬研藤四郎」などを献上したと伝えられています。
その後は織田信長の愛刀でした。
明智光秀が本能寺の変で信長を滅ぼした際、「不動国行」は安土城に残されており明智左馬助が奪い取り坂本城に持ち帰りました。
その後秀吉軍により坂本城を包囲された際、左馬助が天守から投げ下ろして堀秀政に託したといいます。

1582年10月15日、大徳寺で織田信長の葬儀が行われました。
その時、秀吉自らこの「不動国行」を掲げて参列しています。

その後賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を討滅した際に、秀吉に対し徳川家康より名物茶入れ「初花肩衝」が贈られました。
それに対し、秀吉は1583年8月6日に筑前守津田左馬允を使者とし「不動国行」と「白雲の大壺」を家康に贈っています。

1632年正月23日、二代将軍徳川秀忠は臨終にあたり「不動国行」「江雪正宗」「三好宗三左文字(義元左文字)」を世継の家光に譲ります。
のち1657年の明暦の大火で焼刃しましたが、筑前信国派の信国重包に再刃させました。
1680年、4代将軍家綱の葬儀の際に堀田備中守正俊が捧持して参列しています。
1721年、8代将軍吉宗は「不動国行」を筑前の信国重包に模造させています。
吉宗から紀州徳川家に贈られますが、1869年7月には静岡に隠遁していた徳川宗家に返還されました。

1937年2月16日に重要美術品に認定。徳川家達公爵所持。
しかしその後行方不明となっています。

織田信長が家臣へ与えた刀

へし切り長谷部


金象嵌銘 長谷部国重本阿(花押)/黒田筑前守
名物 へし切
刃長64.8cm、反り0.9cm、元幅3.0cm、先幅2.5cm、鋒の長さ5.8cm
国宝
福岡市博物館所蔵
「圧切へしきり」「圧切御刀」
建武期の刀工、長谷部国重の作。
享保名物帳所載

由来

ある時、観内という茶坊主が失敗を犯しました。
織田信長は手打ちにしようと追いかけましたが、観内は台所の御膳棚の下に隠れました。
棚の下では刀を振り上げて切ることができません。
仕方なく棚の下に刀を差し入れあてたところ、たいして力を入れることもなく胴体ごと「圧へし切って」しまったといいます。
へし切長谷部は恐ろしいほどの切れ味の名刀です。

来歴

名物帳では信長より秀吉に贈られ、後に黒田長政に贈られたとされています。
しかし別の説では信長から如水(黒田官兵衛孝高)へ直接下賜したともいいます。

1660年に本阿弥家に鑑定に出され、この時に五百貫の折紙をだしたとされています。
1936年9月18日 旧国宝指定。
1953年3月31日 国宝指定。
黒田家14代目当主黒田長礼が所蔵してました。
1978年に氏が亡くなった後、茂子夫人(閑院宮載仁親王の第二王女)は夫の遺志に基づき黒田家に伝わる宝物、美術品を福岡市に寄贈しました。
現在は福岡市博物館所蔵です。

豊後藤四郎

短刀
銘 吉光
名物 豊後藤四郎
九寸六分
享保名物帳所載(ヤケ)

由来

多賀豊後守(多賀高忠)所持にちなみます。
醍醐寺の庭を造る際に、名石「藤戸石」を運ぼうと大勢で引きますが動かず、高忠が豊後藤四郎を手に指揮したところ見事動かすことができたそうです。

来歴

1686年秋に、本阿弥家から高忠子孫の旗本多賀新左衛門に紹介した所「昔のことなので定かではないが、高忠曾孫の信濃守貞能のときに足利将軍へ献上したもの」といいます。
その後義昭から信長に下賜されたとみられています。

これとは別に、高忠から諸所を転々とした後に高家品川家の祖、今川氏真から信長に献上したとも伝わります。
本能寺の変後行方がわからなくなっていました。

「本阿弥光徳刀絵図」に全身図が出ていることから、秀吉の所蔵刀であったことがわかります。

後に秀忠の所持となります。
1617年調べの刀剣台帳では第一番に記載され、一之箱に保管されていました。
「本阿弥光柴押形」では「将軍様ニ有之」となっており、この頃には将軍家所蔵となっています。

本阿弥光甫はこれを「天下第一のぶんご藤四郎」と読み、秀忠は数ある藤四郎の中でもこれを最高としました。
1632年正月23日、秀忠は臨終に臨み将軍家光に不動国行の太刀・江雪左文字の太刀・宗三左文字(義元左文字)の刀とともに豊後藤四郎を贈っています。

その後明暦の大火で焼けてしまいました。
1717年、近江守継平が写した「継平押形」では刃紋が描かれていますが、これは古い押形を見て模写したものとされています。

不動行光

短刀
銘 行光
名物 不動行光
8寸4分(25.4cm)
個人蔵
鎌倉の刀工、藤三郎行光の作。
享保名物帳所載

由来

不動行光とは、表の櫃の中に不動明王とその眷属である矜羯羅(こんがら)、制多迦(せいたか)の両童子を浮彫にしているところから名づけられたものです。
矜羯羅童子と制多迦童子は不動明王の従者「八大童子」に含まれますが、不動明王とこの2体を両脇に従えた三尊をとくに「不動三尊」と呼び意匠として使われることが多いです。

来歴

織田信長は小姓の中でもとくに才能を愛した小姓頭森蘭丸にこの不動行光を与えています。
信長が厠に行く際に小姓の蘭丸に刀を渡しました。
その時に蘭丸は拵えの刻(きざみ)の数を数えていました。
ある時信長が「拵えの刻の数を言い当てたものにこの不動行光をやろう」といいます。
皆が答える中、蘭丸だけが黙していたため信長は理由を問いただしました。
すると蘭丸は信長に上の経緯を話し「知っていながら知らぬ振りをしていい当てることは嫌でございます」と答えたため、信長はその正直さを賞し「不動行光」を蘭丸に与えたといいます。

その後、蘭丸は本能寺の変で信長に殉じたため、不動行光も焼身となりました。

江戸時代中期の1800年に刊行された「集古十種」によると、当時不動行光はまだ本能寺に所蔵されており、刀身は一尺八寸六分であったといいます。
しかし、不動行光は短刀であり八寸六分の誤りだと思われます。
また該当すると思われる記述では「織田信長公刀圖山城國本能寺藏 長一尺八寸六分 無銘」と無銘になっていることから、不動行光ではなく別物の可能性もあります。

その後、豊前小倉藩小笠原家に伝来しました。
1929年3月の日本名宝展覧会では小笠原長幹伯爵所持となっています。
現存しており、現在は個人蔵です。

エピソード

織田信長が所有し、不動行光をを非常に自慢していました。
酒に酔って気分が良くなると、膝を叩きながら「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」とよく歌ったといわれています。
「不動行光」本刀
「つくも髪」名物茶器の「九十九髪茄子」茶入
「五郎左」丹羽長秀(五郎左衛門尉)のこと

もとは東山御物である名物「九十九髪茄子」が松永弾正から献上されたのは1568年です。
この歌はその頃の話となります。

織田信長と刀

いかがでしたか?
戦国の乱を駆け抜けた武将、織田信長とその愛刀たち。
織田信長は他にもたくさんの刀を所持していたといわれています。
今回はそんな中から一部を紹介しました。
ぜひみなさんも織田信長とその愛刀に触れてみてください。

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