戦国時代の武将・浅井長政とその妻・お市の関係

戦国時代を駆け抜けた武将・浅井長政とその妻お市の方。二人の子供は浅井三姉妹と呼ばれ大河ドラマなどで知っている人も多いかもしれません。今回はそんな浅井長政とお市の方。そして浅井三姉妹について紹介します。

目次

  1. 戦国武将・浅井長政
  2. 妻・お市の方
  3. 浅井長政とお市の方は仲が良かった?
  4. 浅井長政とお市の方の娘・浅井三姉妹
  5. 浅井長政とお市の方

戦国武将・浅井長政

浅井長政は、戦国時代の武将です。
北近江の戦国大名で、浅井氏の3代目にして最後の当主でした。

浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていました。
妻の兄である織田信長と同盟を結び浅井氏の全盛期を築きましたが、後に信長と決裂し織田軍との戦いに敗れて自害してしまいます。
そして浅井氏は滅亡してしまいました。

長政は徳川家光の祖父に当たります。
そのため、死後1632年9月15日に官位・贈従二位中納言が贈られました。

生涯

家督相続

浅井長政は1545年に浅井久政の嫡男として、六角氏の居城・南近江の観音寺城下で生まれました。
幼名は猿夜叉丸です。

下克上により、直接の主筋で北近江の守護であった京極氏を追い落とした浅井氏ですが、当時南近江の守護であった六角氏との合戦に敗れてしまいました。
初代当主である浅井亮政(長政の祖父)の代に手に入れた領地も失ってしまい、六角氏に臣従していました。

そのため長政自身も、生母・小野殿と共に人質になっていたとされています。
久政は六角氏との外交に力をいれ、かろうじて北近江を維持していました。
しかし、家臣の中には久政の弱腰な政策に反発する者も多くいました。
また「先代に活躍した武将も世代交代」という名目で低い扱いを受けていました。

15歳で長政が元服した時に、浅井と臣従関係にあることをはっきりさせるため六角氏は長政に当主である六角義賢の一字をとって賢政と名乗らせました。
また、六角氏の家臣である平井定武の娘との婚姻もを強いました。

浅井家の成長と六角家の衰退

1560年8月中旬、賢政(新九郎)は15歳の若さで軍を率い、六角軍を相手に野良田の戦いで見事な戦い振りを披露しした。
これにより、重臣の赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経らを心酔させたと言われています。

家臣たちは六角氏に服従する状況に不満を持っていました。
賢政に期待を寄せ、久政を竹生島に追放して隠居を強要します。
長政は家督を強奪に近い形で相続しました。
長政は六角氏から離反する意思を明確にするため平井定武の娘を六角氏に返し、「賢政」の名も新九郎に戻しました。

野良田の戦いの勝因は、六角氏は短期間で寄せ集めの軍備だったのに対し、浅井軍は久政が隠居した頃から合戦の準備を始めていたからだと思われます。
また朝倉氏に援軍を求めた様子もないありませんでした。
そのため、朝倉親交派である久政や家臣達ではなく長政自身が戦の主導権を取っていたという見方もできます。
長政は合戦後、朝倉氏との関わりを少なくした独立政治を展開しています。

1563年、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺されました
これが観音寺騒動です。
この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多くいたので、六角氏の改革失敗が決定的になりました。
同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が軍を動かしました。
そのため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破しました。
殿(しんがり)を守らせた赤尾清綱は、わずか500の兵で見事な働きを見せたのです。
この2つの出来事で浅井氏は領地を拡大しました。
その後は六角氏との停戦協議により膠着状態が続きます。

織田信長との同盟

1560年代、織田信長は美濃斎藤氏との膠着状態を打破するため不破光治を長政のもとに使者として送り、同盟を提案しました。
同盟の条件は浅井側に有利でしたが、浅井家臣の中では賛否両論ありました。

最大の問題は、久政の盟友である朝倉義景と信長の不仲です。
西美濃勢が信長寄りに振る舞う度に領地が油阪で通じることになり、織田・朝倉は互いに挑発を繰り返していました。

同盟に際して織田・浅井の両家は政略結婚をしました。
1567年9月頃に、長政は信長の妹のお市を妻としました。
長政とお市の婚姻時期については、1564年・1565年などいくつかの異説があります。

織田・浅井の同盟により、信長は上洛経路ともなる近江口を確保し、美濃国攻略の足掛かりとしました。
信長は同盟成立を大いに喜びました。
当時のしきたりでは通常は浅井側が結婚資金を用意するものでしたが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされてます。
長政はお市との結婚の際に、信長の一字を拝領し長政と改名したともされています。
さらに賢政時代の花押をやめ、「長」の字を右に倒した形の花押を作りました。

1568年7月、越前国に滞在していた足利義昭は一向に上洛の意志をみせない朝倉義景に見切りをつけ、尾張の信長の元に身を寄せました。
これにより、9月に信長は上洛を開始します。
上洛の道中、反抗する六角氏を攻撃しました。
これにより、長政の宿敵である六角氏の勢力は、南近江の甲賀郡に撤退しました。
浅井氏も、義昭を守護しながら上洛を掩護しました。

同盟破棄・信長包囲網

信長は1570年、長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り、徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過して越前国の朝倉方の城を攻め始めます。
長政は義景との同盟関係を重視し、織田徳川連合軍を背後から急襲しました。
信長は殿を務めた木下秀吉らの働きにより、命からがら近江国を脱出しました。

信長との同盟に反対していた家臣達は、信長が朝倉攻めに際して一報を入れなかったことから、隠居の久政をかつぎ出し、長政に織田軍への進撃を提案したと言われています。
敦賀への進軍に、主力である武将達は参加しておらず長政が居たという記録はありません。
また、そもそも織田と浅井の同盟自体が存在せず、金ヶ崎の戦いでの織田軍は目的を達して凱旋中に浅井氏の挙兵を知ったという説もあります。

同年6月、長政は朝倉軍とともに近江国・姉川で織田徳川連合軍と戦います。
これが姉川の戦いです。
先鋒の磯野員昌が織田軍の備え13段のうち11段まで崩す猛攻を見せ、織田軍は敗走の用意をしていたという逸話がありますが、信憑性は薄いです。
結果的にこの戦は、織田徳川連合軍の勝利に終わりました。
なお、当時浅井軍の名もない足軽だった藤堂高虎は姉川の戦いに参戦し、織田軍に対し多くの武功を上げて長政から感状を送られました。

姉川の戦いの後、信長に脅威を覚えた本願寺(野田城・福島城の戦い)が、反信長の意志を表しました。
9月には朝倉軍や延暦寺・一向宗徒と連携し、再び信長への攻勢を強めます。
坂本において森可成や織田信治らを討ち取ります。
しかし、信長が足利義昭に和睦の調停を依頼し、さらに朝廷工作を行ったため12月に信長と勅命講和することになります。
また、浅井氏と協力関係にあった延暦寺は1571年9月に信長の比叡山焼き討ちにあい、壊滅してしまいました。

武田信玄との連携

1572年7月、信長が北近江に来襲しました。
長政は父の代からの同盟者である朝倉義景に援軍を要請します。
義景は1万5,000の軍勢を率い近江に駆けつけました。
信長との正面衝突にはならず睨み合いが続きましたが、浅井・朝倉連合軍は織田軍に数で劣っており、依然として苦しい状況でした。

遅れること同年9月、将軍・足利義昭の要請に応える形で武田信玄がやっと甲斐国を進発します。
信玄はこの時、長政・久政親子宛に「只今出馬候 この上は猶予なく行(てだて)に及ぶべく候 」という書状を送っています。

その後、信玄は遠江で織田・徳川連合軍を撃破しました。
これが三方ヶ原の戦いです。
長政らには北近江の織田軍を岐阜に戻さないという役割が与えられました。
北近江に織田軍を釘付けにすれば、信長は全力をもって信玄の軍勢とぶつかることができず、反信長連合軍の勝機は高まりました。

同年12月、北近江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国しました。
北近江に縛られていた織田軍も、義景の撤退により美濃に戻りました。
この時、長政の寡兵は義景の軍と同様に悪条件がそろっていたため、退却する織田軍の追撃は難しかったのです。

信玄は義景の独断に激怒し、再出兵を促す手紙(伊能文書)を義景に送りました。
しかし義景はそれに応じず、黙殺的態度を示しました。
それでも信玄は義景の再出兵を待つなどの理由で軍勢を止めていましたが、翌年2月には進軍を再開し家康領の野田城を攻め落とします。
しかし、信玄の急死により、武田軍は甲斐に退却してしまいました。
これにより包囲網は一部破綻し、信長は大軍勢を近江や越前に向ける事が可能になりました。

浅井家滅亡

1573)7月、信長は3万の軍を率いて再び北近江に攻め寄せます。
長政は義景に援軍を要請します。
義景は2万の軍で駆けつけますが織田の軍勢が北近江の城を即座に落としました。
また、浅井家中にも寝返りが相次いだため、浅井氏の救援は不可能と判断し義景は越前国に撤退を始めました。
撤退する朝倉軍を信長は追撃して刀根坂にて壊滅させ、立て直す隙を与えずそのまま越前国内へ乱入し朝倉氏を滅亡させた後、取って返して全軍を浅井氏に向けました。

もはや浅井軍は、信長の大軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみでした。
ついに本拠である小谷城が、織田軍に囲まれます。
信長は不破光治・木下秀吉を使者として送り降伏を勧めましたが、長政は断り続け最終勧告も決裂しました。

8月27日父の久政が自害してしまいます。
「信長記」には翌28日に長政は小谷城内赤尾屋敷にて自害したとされていました。
しかし、29日に出された長政の片桐直貞に対する感状が発見され、命日は9月1日であることが判明しました。
享年29でした。

妻・お市の方

お市

お市の方は、戦国時代から安土桃山時代にかけて生きた女性です。
小谷の方、小谷殿とも称されます。
名は通説では「於市」で「市姫」とも云い、「好古類纂」収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されていますが定かではありません。

戦国大名・織田信長の妹で、信長とは13歳離れています。
通説では父は織田信秀、五女と伝えられ母は土田御前とされています。
信行、秀孝、お犬の方は同腹の兄姉といいます。

初めは近江の大名・浅井長政の正室となり、後に織田家重臣の柴田勝家の後妻となりました。
子に茶々(豊臣秀吉側室)初(京極高次正室)江(徳川秀忠継室)がいます。
孫にあたる人物は豊臣秀頼(茶々の息子)豊臣完子・千姫・徳川家光・徳川和子(江の娘・息子)などです。

生涯

お市の前半生についてはほとんど記録がなく不明です。

婚姻時期については諸説ありますが、通説では1567年9月または1568年1月から3月ごろといわれています。
美濃福束城主・市橋長利を介し、浅井長政に輿入れしたとされています。
お市と長政の婚姻により織田家と浅井家は同盟を結びました。
なお、長政は主家である六角家臣・平井定武との婚約がなされていましたが、お市との婚姻により破談となっています。

その後、長政との間に3人の娘を儲けます。
この時期長政には少なくとも2人の息子が居たことが知られていますが、いずれもお市との間に儲けられた子供ではないと考えられています。

1570年、信長が浅井氏と関係の深い越前国の朝倉義景を攻めました。
そのため、浅井家と織田家の友好関係は断絶してしまいました。
しかし、お市と長政は政略結婚ではありましたが、夫婦仲は良かったそうです。
1570年頃から実家の織田家と浅井家が対立するようになりましたが、緊張関係が生じた時でも娘を出産したことから夫婦間は円満であったように思えます。

長政が姉川の戦いで敗北した後、1573年に小谷城が陥落し、長政とその父・久政も信長に敗れ自害てしまいました。
お市は3人の娘「茶々」「初」「江(江与)」と共に藤掛永勝によって救出され織田家に引き取られます。
その後は信長の許しを得て、清洲城にて兄の信包の庇護を受け、三姉妹と共に9年余りを平穏に過ごしたといわれています。
この時の信長のお市親子に対する待遇は大変厚く、お市や三姉妹のことを気にかけ贅沢をさせていたそうです。
信包もお市や三姉妹を手元で保護し、姪たちを養育したといいます。
また、別の説ではお市と三姉妹は信包の庇護ではなく、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたともいわれています。

信長死後の1582年、柴田勝家と羽柴秀吉が申し合わせ、清洲会議で承諾を得て柴田勝家と再婚しました。
従来の通説では神戸信孝の仲介によるものとされてきましたが、勝家の書状に「秀吉と申し合わせ…主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」と書かれたものがあります。
そのため勝家のお市への意向を汲んで清州会議の沙汰への勝家の不満を抑える意味もあって、会議後に秀吉が動いたとの説もあります。
婚儀は本能寺の変の4か月後8月20日に、信孝の居城岐阜城において行われました。
同年、勝家の勧めにより、京都の妙心寺で信長の百箇日法要を営みました。

1583年勝家が羽柴秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れたため、お市は夫と共に越前北ノ庄城内で自害しました。
享年37歳でした。

人物

小谷寺には、市の念持仏と伝えられている愛染明王が納められています。
また、戦国一の美女と賞されさらに聡明だったとも伝えられています。

長女の淀殿は父・長政の十七回忌、母・市の七回忌に菩提を弔うために、両親の肖像画を描かせました。
この肖像画は高野山・持明院に伝えられています。
肖像画に描かれたその姿は戦国末から安土桃山時代にかけての貴婦人の正装の典型的なものです。
下着を3枚かさね着し、肩と裾だけに片身替わりの模様のある小袖を着て、その上に白綾の小袖をかさね、一番上の美しい模様の着物を肌ぬぎにしています。
平安時代の宮廷の女官が着た十二衣のかさね着などと比べると、同じ正装でも著しく簡略化され解放的になってきたことがわかります。

「朝倉公記」によると金ヶ崎の戦いの折り、信長に袋の両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞いに送り挟み撃ちの危機を伝えたという広く知られた逸話がありますが、この逸話は後世の創作と言われているます。
もっともその頃の風習から、大名間の政略結婚において女性は実家から婚家へと送り込まれた外交官・間諜としての側面があったため、お市は両家をとりまく状況の変化を情報として得て、それを実家に伝達をする役割を果たしていたことが窺えます。
「溪心院文」によると、37歳の時点で実年齢よりもはるかに若い22、23歳に見えるほど若作りの美形でした。

信長は大名間の政略婚にはほとんど形式上養女にした娘を用いていました。
実の妹や娘で他国に嫁いだのは、この市おを除けば松平信康に嫁いだ徳姫(信長の娘)のみです。
それ以外はすべて家臣か公家との縁組でした。

3人の娘たちの行く末を心配していたお市は、北ノ庄城の落城の際には庇護を受ける羽柴秀吉に直筆の書状を送り、3人の身柄の保障を求めるなど秀吉のことを憎むどころか、秀吉を信頼していたました。
また、血統の存続を考えての行動でもありました。
なお、徳川家に嫁ぎ多くの子を成した江(崇源院)により、その血筋は現在に至るまで続いています。

羽柴秀吉が恋慕を抱いていた女性ともされおり、テレビドラマなどでの描写からそのような印象が流布していますが、あくまでフィクションであり信頼できる史料の裏付けはありません。
むしろ秀吉は柴田勝家と申し合わせて清州会議で婚姻を実現させています。

伝説

三重県阿山郡阿山町下友田・浄光寺の稲増家の墓所に浅井長政の墓碑があります。
稲増家の始祖治朗郎左衛門は浅井家の重臣でしたが、浅井家滅亡ののち、「日比」さらに「稲増」と苗字を改めました。
享保年間に入って、伊勢・伊賀を支配する藤堂家に仕え、伊賀忍術の皆伝を受けたといいます。
現在地には、今も江戸時代以来の稲増屋敷が残されていますが、同家の土蔵にお市の方の「のど仏」が納められていると伝えられています。

浅井長政とお市の方は仲が良かった?

当時としては晩婚だった?長政との結婚

市の前半生は不明ですが、兄の織田信長や信包が姉妹の中でも特にお市を大事に扱っていました。
そのため信長の同腹の姉妹である織田信秀の二番目の正室だった土田御前の生んだ娘だろうと言われています。

お市は美男美女の多い織田家の中でもとりわけ美人であると言われていました。
1567年頃、織田信長の娘分として近江国を治めていた浅井長政と結婚します。
お市はその時21歳。
当時の大名の姫君としては晩婚で二度目の結婚でした。
もしくは何かの事情があったのではないかとも言われますが定かではありません。

ただ、お市は戦国一の美女と呼ばれた女性でしたので彼女の結婚は信長にとっては最強の切り札でした。
織田信長にとっては政略結婚の道具以上に可愛くてしかたのない自慢の妹です。

そして、信長が浅井長政の才能に目をかけていた事はよく知られています。
信長は浅井家を継ぐ事になった長政の器量に期待をかけ、お市を嫁がせるのならばこの男だとやっと心が定まったのではないでしょうか。
二人の結婚の目的は織田信長の京都への上洛を成功させる為、信長の平定した美濃から京都に至るまでの要所である近江国と同盟を結びたかったからだと言われています。

長政のお市への思いやり

夫である浅井長政と市との夫婦仲は大変良かったと言われています。
現在残されている木像や肖像画から見ると、浅井長政はふくよかな面差しで優しげな人だったようです。
お市とは美男美女の夫婦と言われ、二人の間には三人の娘がいました。
この三人の娘が戦国時代の波乱の時代を生きた浅井家の三姉妹です。

信長と同盟関係になりましたが、浅井家でお市は決して歓迎される妻ではありませんでした。
身内は信長の送り込んだスパイだろうと警戒していました。
妻として愛情を持って接したのが夫である長政でした。

婚家で冷たく扱われて心細い思いをしていたお市にとって長政の優しさだけが浅井家での頼りだったのでしょう。
彼のお市に対しての愛情は、信長と対立し朝倉家につく事になっても変わる事はありませんでした。

落城後のお市の長政への愛

小谷城が落城する際、お市も長政の妻として夫と共に死ぬ道を選ぼうとします。
しかし長政はそれを説得し、織田家の陣営に娘達とお市を送りました。
長政はお市に娘達と共に生きて浅井家の血筋を伝えて欲しいと託して自害してしまいます。

お市は敵の妹でしたが、長政にとっては大事な妻でした。
それを生涯曲げずに貫いた彼は本当にお市の事を愛していたのでしょう。

浅井家より信長の元へと送り届けられたお市は再び信長の保護下に入ります。
お市は浅井長政を慕い続け、再婚はしようとしなかったと言います。
信長もそれを許し、お市と三人の娘達には贅沢な暮らしをさせたと言われています。
信長の性格を考えると妹がどう思おうが無理矢理また政略結婚させてしまいそうですが、そうではありませんでした。
それだけ信長はお市を可愛い妹と大事にしていました。

戦国一の美女の後悔と一途な想い

信長の没後、お市は柴田勝家の正室として再婚します。

秀吉と勝家の間で戦いになり、とうとう勝家が自害を選ぶ際勝家もまた市に逃げるように勧めました。
この時お市は「小谷で逃げたのにまた逃げる事は出来ない」と答え、三姉妹に織田と浅井の血を守るように伝えて勝家と運命を共にします。

長政と共に死ななかった事は終生市の後悔だったようです。
長政がそうであったように、お市もまた生涯長政を愛し続けたのでしょう。

浅井長政とお市の方の娘・浅井三姉妹

浅井三姉妹とは、浅井長政とお市の方の間に生まれた三人の女性(茶々・初・江)です。

戦国屈指の美女にして、乱世に翻弄されて悲劇的な最期を遂げた母・お市の方と共に、浅井三姉妹は戦国時代を語るには欠かせない存在です。
3人は母にも劣らぬ波瀾万丈の生涯を送りました。
当時の女性としては歴史的史料が比較的多く残っており、小説やドラマでも取り上げられることが多いです。

母が自害したあと、炎上する北ノ庄城から逃れ三姉妹は両親の仇である秀吉に引き取られました。
そして三者三様の、母以上に数奇な運命をたどることとなります。

長女・茶々

茶々は豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の生母です。
秀吉から淀城を与えられたことから、一般的には淀殿の名で知られています。
かつては淀君と呼ばれることが多かったですが、こちらは江戸時代に付けられた蔑称のため最近はあまり使われません。
但し、淀殿という呼称も当時の記録にはないため、正式には淀の方などと呼ばれていたそうです。

妹たちが政略結婚で嫁がされていく中、茶々は最後まで残りました。
そして皮肉にも両親の仇である秀吉の寵愛を受けました。

1589年に長男・鶴松を出産します。
この直前に先述の淀城を与えられました。
鶴松はわずか2年後に早世しますが、1593年には秀頼(幼名・拾)を産みます。
実子に恵まれなかった秀吉にとって待望の跡継ぎ誕生となり、淀殿は正室・北政所(ねね)に次ぐ地位を手にしました。

しかし豊臣政権を自らの絶対的権力とカリスマで統治した秀吉が亡くなると、徳川家康の台頭に伴い淀殿・秀頼母子の立場は急速に揺らいでいきます。
結局、淀殿は家康との武力衝突を選択しました。
そして大阪夏の陣において秀頼と共に自害しました。
父を失った小谷・母を失った北ノ庄に続く三度目の落城で、彼女は母・お市と同じ最期を迎えたのでした。

淀殿は浅井三姉妹の中でダントツの知名度を誇りますが、結果的に豊臣家を滅ぼしてしまったことから、一般的評価は低いです。
また、
・秀頼を跡継ぎにしたいために後継者のライバルだった秀吉の甥・豊臣秀次を一族皆殺しに追い込んだ元凶
・北政所と派閥対立を起こして家康がつけいる隙を作った
・石田三成や大野治長と密通した
などの悪評ばかり残ります。
しかしこれらの多くは後世の創作という見方が強く、実際には北政所との仲も比較的良好だったようです。

次女・初

お初は室町幕府から続く名門・京極家の当主・京極高次の正室です。
高次の死後、出家して常高院と号しました。
高次が秀吉や秀忠に比べ、歴史的活躍や功績に乏しいことから脚光を浴びることはあまりありませんが、お初自身は姉妹に劣らぬ活躍を果たしました。

1587年、秀吉の命令で高次と結婚します。
高次の母でキリシタンだった京極マリアは長政の姉にあたるため、高次は従兄でもありました。
本能寺の変では光秀に味方しながらも、初を正室に迎え姉・竜子が秀吉の側室となったことから、高次は一族の七光りという蔑みも含んで「蛍大名」と揶揄されました。

しかし、関ヶ原の合戦では家康に味方して大津城に籠城し立花宗茂を迎え撃ちます。
お初は夫と共に立て籠もりましたが、敵の砲撃に竜子があわや巻き込まれそうになる程の激戦だったといわれています。
高次は降伏して高野山に入りましたが、開城したのは関ヶ原の合戦当日でした。
九州屈指の名将・宗茂の猛攻を食い止めて本戦に間に合わせなかった功績により、高次は越前小浜を与えられて京極家を江戸時代まで存続させることができました。

お初が歴史の表舞台の登場するのは高次の死後、常高院となってからです。
妹・お江の長女・千姫が豊臣秀頼に嫁ぐ際には、これを引き合わせます。
この時、淀殿・常高院・お江の浅井三姉妹は十数年ぶりに再会を果たしますが、これが三人全員が揃った最後の対面となりました。

やがて大阪冬の陣が起こると、常高院は大坂城に残り、織田有楽斎と共に和睦を実現します。
しかし、大坂城の堀埋立問題などにより交渉は決裂してしまいました。
生き残りと逃げ足の早さに定評のある有楽斎も出奔し、徳川家との再戦を最後まで回避させようとしましたが徒労に終わり、夏の陣では姉の最期を無念の内に見届けることとなりました。
お初は三姉妹の中で最も長生きしましたが、晩年は継子の京極忠高とその正室でお江の四女・初姫の不仲に悩まされるなど、苦悩が絶えなかったようです。

三女・江

名称はお江の他にも、小督・お江与などがあり、ドラマや小説でも作品によって呼び名が異なっています。
死後、崇源院と諡を与えられました。

1584年頃、秀吉の命令でお市の姉妹・お犬の方の子である佐治一成(江の従兄)と政略結婚します。
しかし、一成が当時秀吉と対立していた徳川家康に属したことから、すぐに離縁されました。
但し、この政略結婚は不透明な箇所も多く、実際には行われなかったという説もあります。

その後、再び秀吉の政略結婚により豊臣秀勝(秀吉の甥で、秀次の弟)と再婚します。
この結婚時期もよくわかっていませnが、秀勝との間には一人娘の完子(さだこ)をもうけました。
しかし、秀勝はこの前後に朝鮮出兵に出陣しており、異国の地で病死してしまいます。
完子は姉・淀殿に引き取られた後、徳川家と朝廷の仲介役として活躍した関白・九条忠栄(幸家)に嫁いぎました。

お江の運命が大きく転換したのは、徳川秀忠との三度目の政略結婚のときです。
1595年に結婚した時、江は数え23歳、秀忠は17歳と6歳年上の姉さん女房でした。
江は辛い記憶の残る京を後にして秀忠と江戸に下り、死ぬまでこの地で安住しました。

姉二人とは対照的に、秀忠の間だけでも2男5女の子宝に恵まれました。
当初、男子がなかなか産まれなかったことから、家光や忠長はお江と秀忠の子ではないという俗説もありますが、後に家光と忠長が対立したり家光が秀忠を嫌って家康を崇拝していたなどの歴史的背景から生まれた作り話に過ぎません。

秀忠が家光に将軍職を譲り大御所となると、お江は夫と共に江戸城西の丸に移り住んみました。
秀忠と家光が上洛している最中に病が篤くなり、千姫や常高院に看取られながら江戸城西の丸でその生涯を閉じました。
秀吉の政治の道具として不遇だった前半生に比べ、お江本人は将軍・秀忠の正室として君臨する栄光に満ち、穏やかな後半生を送りました。

淀殿ほどではありませんが、お江も物語などでは忠長を偏愛し家光の乳母・春日局と対立するなどマイナスイメージが強くあります。
こちらも、春日局が光秀の家臣・斉藤利三の娘である関係や、忠長の末路から考えられた俗説です。
また、お江は大変な恐妻家としても知られており、秀忠は侍女との間に生まれた保科正之が、お江の勘気に触れることを恐れて養子に出し、お江の生前はその目をはばかって対面しませんでした。
正之が歴史の表舞台に立つのは、お江の死後のことです。

同時に秀忠は愛妻家でもあったそうで、亡くなる時も家康のように神格化されることを拒み、お江の眠る増上寺に葬られました。
生涯を通して正室ただ一人だった著名な戦国武将は、秀忠の他には山内一豊くらいしかいません。
その点においても当時では希有な例に入ると思われます。
遺骨の調査によると、大柄であった両親に似ずお江自身は小柄で華奢な人物だったそうです。

多くの子に恵まれたため、現在伝わっている浅井家の血筋のほとんどがお江の系統です。
徳川秀忠の男系が途中で途切れてしまったため、徳川宗家にお江の血筋は伝わっていませんが、前田家、天皇家などにはお江の血筋が今も残っています。
昭和天皇ならびに天皇陛下父子も江の子孫にあたります。
その他にも、第34・38・39代内閣総理大臣・近衛文麿、その孫で第79代内閣総理大臣・細川護煕も江の血筋です。

浅井長政とお市の方

いかがでしたか?
戦国時代の美男美女と言われていた浅井長政とお市の方。
二人の生涯は決して長いものではありませんでしたが、お互い生涯愛し続けた相手であったというのは、とても素敵なことですね。
また、二人の娘たちも戦国の世を力強く生き抜きました。
浅井長政とお市の方。そして浅井三姉妹の生き様はこれからも語り継がれていくことでしょう。

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