千利休 2人の妻と6人の娘たち~茶の湯を伝えた源流~

戦国時代から安土桃山時代にかけての茶人であり商人でもあった千利休。茶聖とも呼ばれ、わび茶の完成者としての名声を持ちながら非業の最期を遂げた千利休の2人の妻と6人の娘たち。千利休のわび茶が今に伝わることに娘たちの存在はどのように影響してきたのでしょうか。

目次

  1. 千利休について
  2. 千利休の生涯
  3. 千利休、二人の妻と息子・娘、12人
  4. 千利休、娘たちそれぞれ
  5. 娘が繋いだ利休の茶
  6. 娘だからこそ

千利休について

千利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけての茶人であり商人です。
鎌倉時代、村田珠光が提唱した「わび茶」の完成者であり、今井宗久、津田宗及とともに、茶の湯の「天下三宗匠」といわれ、「茶聖」とも呼ばれています。そして、この千利休の子孫が、現在まで「茶道の三千家」として続いています。
なんといっても、天下人・豊臣秀吉の側近中の側近として重用されたことは、つとに有名ですし、特に、秀吉が織田信長から引き継いだ「御茶湯御政道」、特定の家臣にのみ、茶の湯を許可し、茶の湯は武家儀礼としての資格を備え、茶の湯に政治性をもたせる政策のなかで、多くの大名にも影響力をもった人でした。

千利休

茶聖「千利休」わび茶の完成者。信長、秀吉と二代にわたる戦国の天下人に仕えた茶人であり、優れた商人でもあった。利休に込められた「利心、休せよ」才能におぼれず、先の丸くなった錐の境地を目指せという意は、利休以降の千家の家訓でもあり、娘たちもその精神で育てられた。
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千利休の生涯

堺の商家「魚屋(ととや)」と号する納屋業、現在の倉庫業に生まれた千利休は、幼名を与四郎といいます。若い時から茶の湯に親しみ、17歳で室町時代の堺の茶匠、北向道陳、そして竹野招鴎に師事し師匠とともに、茶の湯の改革に取り組みました。
堺の南宗寺で禅の修行を積み、その本山である京都の大徳寺とも親しく交わったと言われています。
この大徳寺の住持となった大林宗套から「宗易」という名を与えられ、茶人としては、「宗易」を名乗っていました。
織田信長が堺を直轄地としたとき「茶頭」として雇われ、ここから、利休と時の権力者との深い結びつきができていきます。

秀吉との関係

本能寺の変で、信長が志半ばで命を落とし、一気に天下人に登り詰めた秀吉。
利休も、秀吉にも仕えることになりました。この秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、宮中へ参内するのに、町人の身分では出入りできないため、居士号「利休」を天皇から賜ったとされています。
この頃、栄華を極めた秀吉と利休の関係は、「蜜月期間」といわれています。
「黄金の茶室」の造営、「北野大茶会」の主管、聚楽第の築庭など、千利休は秀吉の側近中の側近として、秀吉政権にも大いに関わっていきます。
豊臣政権の内外の政務や軍事に欠くことのできない存在の秀吉の弟、豊臣秀長が、大坂城を訪れた大友宗麟に「公議のことは私に、内々のことは宗易に」と耳打ちしたというのは、有名なエピソードです。

天正15年、京都・北野天満宮で、豊臣秀吉が催した大茶会。
千利休が主管したことで、秀吉の信任を厚くしたとも、不興をかったともいわれる因縁の茶会
この頃すでに、秀吉は利休の娘を見初めていたとの説も。

千利休、切腹命令

北野大茶会の開催から4年後の天正19年、千利休は、突然、秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられます。「利休七哲」と呼ばれる利休の高弟たちが奔走しますが、その甲斐もなく、利休は聚楽屋敷内での切腹を命じられます。

なぜ、秀吉は、千利休に切腹を命じたのか。その真相については、さまざまな憶測があります。
最も有名なものは、「大徳寺三門(金毛閣)に雪駄履きの自身の木造を2階に設置し、その下を秀吉に通らせた」というものですが、これ以外にも諸説あり、詳しくはわかっていません。
そのひとつに、映画やドラマなどでも描かれることの多いエピソードが「秀吉が利休の娘を側室にと望んだが、断ったため、秀吉に恨まれた」というものがあります。

豊臣秀吉が千利休に切腹を命じる原因の有力説の舞台となった大徳寺の三門。
利休の妻や娘たちは、秀吉の切腹命令をどんな思いで受け止めていたのだろうか・・・

孤高に茶の湯の道を究めているイメージの千利休。
そのプライベート、家族についてご紹介していきましょう。

千利休、二人の妻と息子・娘、12人

千利休

千利休は、二十歳の時、最初の妻を娶っています。
戦国最初の天下人とも呼ばれる武将・三好長慶の妹で、名は「お稲」とされています。
お稲は、千利休との間に、長男・千道安と4人の娘をもうけ、夫に尽くしたのですが、夫婦仲は円満ではなかったと伝えられています。
お稲は、利休と結婚後35年目頃に亡くなり、「宝心妙樹」という法名がつけられ、こちらの名前で千利休の先妻として紹介されていることが多いようです。

お稲が亡くなった翌年、利休は、宗恩(おりき)と再婚します。
宗恩は、前妻、お稲と違い、茶の湯に精通し、利休にとっては、よき補佐役、理解者であったようです。宗恩には、前夫との間に男の子が一人おり、この子を連れて利休と再婚しました。

さらに、利休には、正式な妻以外の女性との間にもうけた子どももいたようで、千利休には、6人の男子と6人の女子がいたとされています。

千利休、娘たちそれぞれ

千利休

6人いる娘たちは、先妻・お稲が産んだ4人と正式な妻以外の女性が産んだ2人とされています。

長女は、利休の甥で茶人の千紹二に嫁ぎました。

次女は、利休の弟子であった堺の茶人、万代屋宗安(もずやそうあん)の妻となりました。
この次女が、秀吉の目にとまり、側室にと求められたといわれている娘です。
しかし、父・利休もさることながら、次女本人が何よりも嫌がり、利休自身も、娘を側室に上げることによって、娘の威光で取り立てられているといわれることを嫌い拒否。このことが、利休切腹命令の引き金になったといわれています。
また、この次女の夫、万代屋宗安は、利休の門下でも傑出した茶人で、秀吉の茶頭も務めていました。
父親、そして夫を自らの茶頭に置きながら、側室に望むというのも、いささか悪趣味と思うのは
時代錯誤なんでしょうね。この時代には、さもありなんなことだったのかもしれません。

三女は、千利休の門人でもあり、従兄弟にあたる石橋良叱に嫁ぎました。

四女は、元、本能寺の僧侶で、千利休に学んで、還俗した円乗坊宗円(古市宗円)と結婚しました。この宗円も、茶人としては、かなり優れた技量を持っていたようで、利休から「茶の湯の奥義」といわれる「極真台子」「盆点法」を伝えられた唯一の人といわれています。

五女については、あまり伝聞も資料ものこされておらず、「魚屋与兵衛に嫁いだ」とされていますが、「魚屋与兵衛」といえば、利休の父と同じ名前。利休の生家の魚屋を継いでいた人のところへ嫁いでいったのかもしれません。母親も、先妻・お稲という記録も、後妻の宗恩という記録もありませんので、お稲、宗恩以外の女性との間に生まれた娘である可能性もあります。

末娘も、母親の記録がありません。しかし結局、この娘が、今に続く「千家」に連なる血統を遺すことになります。名前は「亀」と伝えられて、宗恩と前夫との間に生まれた少庵と結婚。この婚姻を機に、少庵は千利休の養子となりました。

娘が繋いだ利休の茶

千利休

千少庵をお亀の間には、宗旦が生まれています。千利休にとっては孫にあたるわけです。
宗旦は、利休の希望もあって、大徳寺で仏門に入りました。
宗旦の両親、つまり、少庵とお亀は、夫婦仲が悪く別居状態だったそうです。
そんな最中、利休の切腹命令が下され、利休はこの世を去ってしまいました。
少庵は、利休に連座して、会津の蒲生氏郷のもとに蟄居を命じられました。
この時ばかりは、お亀も、別居先から駆けつけたそうです。
その後、徳川家康と蒲生氏郷のとりなしで、千家再興が赦されると少庵は、仏門に入っていた宗旦を
還俗させ、共に利休流の「わび茶」の普及に努めました。

父娘の絆が遺した三千家

少庵の隠居にともない、千家の家督を継いだ宗旦。
祖父の利休が秀吉の命によって、切腹させられたということがいわゆる「トラウマ」になっていたようで、宗旦は、政治との関わりを避け、生涯どこにも士官することなく「清貧」を貫きました。
しかし、子どもたちの就職には熱心で、長男・宗拙を「加賀藩前田家」に、次男・宗守は、「高松松平家」に、三男・宗左を「紀州徳川家」に、四男・宗室は、長男が職を辞した後の「加賀藩前田家」に仕えさせました。
これには、祖母・お亀の意向が色濃いという説もあります。
お亀は、孫たちが、それぞれのお家での立ち居振る舞いや身の処し方さえ間違えなければ、大名家に仕えていることが、利休の茶の湯を後世に残す最短距離だと考えていたのです。
それは、お亀が父・利休から譲り受けた商人としての血筋だろうと言われています。
経済的支援がないなかで、伝統を紡いでいくことが、どれほど大変なことか。
お亀は身をもって知っていたのでしょう。

結局、宗旦から勘当された長男・宗拙を除く、3人の息子は、それぞれ、次男・宗守が「武者小路千家」を、三男・宗左が「表千家」を、四男・宗室が「裏千家」を興し、三千家として現代に至っています。
利休からみれば「曾孫」、少庵からみれば「孫」の世代になって、現在の「三千家」が整ったことになります。

共存共栄の三千家

代々続く伝統文化や芸能、商家などで同じ道で違う家、流派があるというと、いわゆる「お家騒動」の果てというイメージがありますが、千家の場合はそうではありません。
「表」「裏」「武者小路」と名前がついているのは、それぞれが受け継いだ「庵」にちなむものです。
蟄居を赦され、京都に戻った少庵は、千家を再興した際、「不審庵」をはじめとする利休ゆかりの茶室を創建します。宗旦は、父の作った「不審庵」を茶の湯を普及させる拠点に活動をしていたのです。
そして、いよいよ家督を息子に譲るとき、次男の宗守は、漆屋に養子に出ていたので、三男の宗左に
千家の拠点施設である「不審庵」を譲り、自身は、不審庵の「裏」に「今日庵」という新しい庵を建てました。この「今日庵」を後に四男・宗室が継ぐことになります。

ということで、「表」の「不審庵」を継いだ宗左が「表千家」、「裏」の「今日庵」を継いだ宗室が「裏千家」と呼ばれるようになったのです。
漆屋の養子として、少し茶の湯から離れた時期もあった次男・宗守も、再び茶道へ戻り、不審庵と今日庵より、少し南の「武者小路通り」にある「官休庵」を受け継いだことから「武者小路千家」と呼ばれるようになりました。

すぐ近くに庵を構え、お互いに助け合った三千家。
たぶん、徳川御三家が将軍家を守るためのあったように、三千家は曾祖父から続く「わび茶」を守り伝えるために尽力していることは、周知の事実です。

娘だからこそ

千利休

千利休の娘たちのエピソードは、確かな史料が乏しく、史実と伝聞が玉石混交しているものが多いのですが、どの娘も茶人の許に嫁いでいることだけは間違いのないことのようです。
もちろん、父親が茶聖といわれる茶の湯の道のトップに君臨していたのですから、弟子や有縁の人々と結ばれるのは、当然のことなのかもしれませんが、私は、それだけとは思いたくありません。

わが身を介して、子々孫々に繋ぐことのできる女性に生まれたのだから、父が極めた茶の湯の道を後世に遺したい。
理不尽極まりない最期を遂げた父の思いを途絶えさせたくない。

娘たちには、そんな思いがあったのだと思っています。

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