薙刀ってどんな刀?有名な薙刀はなにがあるの?

みなさんは薙刀をご存知ですか?薙刀と聞いて有名な薙刀を思い浮かべることはできますか?今回は意外と知られていない薙刀について。また有名な薙刀・現存している薙刀についてご紹介します。

目次

  1. 薙刀とは
  2. 薙刀の歴史
  3. 有名な薙刀って?
  4. 現存する薙刀
  5. 最後に

薙刀とは

薙刀とは長い柄の先に反りのある刀身を装着した武具です。
当初は「長刀」(“ながなた”とも読まれた)と表記されていましたが、「刀」に打刀という様式が生まれると、「打刀」を「短刀」と区別するために呼称する「長刀(ちょうとう)」と区別するため、「薙刀」と表記されるようになりました。

類似の武器に「長巻」がありますが、長巻は長大な太刀を振るい易くするために柄をそのまま長く伸ばした“柄の長い刀”です。
対し、薙刀は刀の柄をただ長くしただけではなく、刀身及び柄の形状共に斬撃に特化させた「長柄武器」です。
欧米では、日本の薙刀はヨーロッパの長柄武器であるグレイブ、パルチザン、ハルバードの一種に分類されたり、類似の武器と見なされたりします。
グレイブと比較しての特徴は、薙刀は刀身の部分が日本刀のようになっている点です。

薙刀の歴史

戦国武将

薙刀が誕生した過程については研究が進められていないために未だにはっきりとは判明していません。
・単純により間合いを大きく取れる太刀を求めた結果、柄が自然と長くなったものだとする説
・奈良時代後期から鎌倉時代にかけて「手鉾(てほこ)」と呼ばれる柄武器が存在しており、これが改良されたものが薙刀であるという説
・大陸に渡って仏教を学んだ僧により中国の長柄武器である大刀が伝えられ、これに倣って日本で作られたものが奈良時代から平安時代に寺院の守護のために僧兵の武器として広く用いられており、これが薙刀の発祥であるという説
など、その起源と発達過程については諸説存在します。

日本において武士の主な戦闘方法は遠距離から馬上で弓を射ることでした。
しかし、名乗りを上げて一騎討ちを行う際には手持ちの武器による接近戦も行われました。
やがて、戦闘方法の変化から徒戦(かちいくさ)という概念が一般化します。
すると、薙刀は武士から足軽まで広く用いられる主武器となりました。

薙刀の使用が最も盛んだったのは源平時代の頃です。
その後、南北朝時代に至ると「矛」から発展した長柄武器として槍が登場しました。
また長巻の登場によって薙刀が戦場で用いられることは少なくなっていきました。
応仁の乱の頃より戦闘の主流が足軽による集団戦に変わると、振り回し使う武器は密集した隊列を組んで行う戦闘において不便でした。
やがて槍に取って代わられていきました。
その後戦国時代に鉄砲が伝来すると長柄武器そのものが衰退し、薙刀は僧侶・婦女子の用いる武具となっていきました。

新しい武器の発達により実戦武具としては廃れましたが、江戸時代には古武道としての地位を確立しました。
明治時代には撃剣興行で人気を博し、大正時代から太平洋戦争後にかけては主に女性のたしなむ武道の「なぎなた」となり、現代も競技が盛んです。

有名な薙刀って?

数ある薙刀のなかから有名な4振の薙刀を紹介します。

岩融

岩融はかの有名な武蔵坊弁慶が振るったとされる薙刀です。
刃の部分だけでも三尺五寸あったといわれており、有名な三条小鍛冶宗近の作との伝説が伝わっています。

しかし弁慶の存在自体が確実ではありません。
そのため、岩融も”伝説の人物が所持した伝説の武器”といわれています。

武蔵坊弁慶

岩融を振るっていたとされる武蔵坊弁慶とは一体どんな人物なのでしょうか。

熊野別当の湛増が、二位大納言の姫を強奪して産ませたとされています。
母の胎内に18ヶ月もおり、生まれた時には2~3歳児の体つきをしていたそうです。
髪は肩を隠すほど伸び歯も生えそろっていたといわれています。

父湛増は鬼子(おにご)だとして殺そうとしてしまいます。
しかし鬼若と名付けられ、叔母が引き取り育てたそうです。

成長した鬼若は比叡山に入れられます。
しかし、乱暴が過ぎて追い出されてしまいます。
そこで鬼若は自ら剃髪し、武蔵坊弁慶を名乗り始めます。

やがて、京で千本の太刀を奪うという悲願を立てます。
道行く帯刀の武者を襲い、999本までを集めます。
そして残りの1本というところで、五条大橋を笛を吹きながら通歩く義経と出会います。

弁慶は襲いかかりますが、義経は身軽に欄干を巧みに飛び回るため敵いません。
弁慶は逆に返り討ちにあってしまいます。
弁慶は義経に降参し、義経の家来となって生涯を伴にすることを誓います。
しかし、当時五条に大橋はなかったとされているため、堀川小路から清水寺での出来事とされています。

やがて源頼朝が兵を挙げたことにより、義経軍の兵として戦います。
時には弁慶の相談に乗り、時には様々な場面で活躍し、またある時にはその武勇を奮って獅子奮迅の戦いをしました。
見事平氏打倒を成し遂げ京へ凱旋したものの、義経が頼朝からの疑いをかけられてしまいます。
一行は京を脱出し、奥州藤原氏を頼りに北上します。

一行が奥州へたどり着いた時には、既に奥州藤原氏にも義経追討の命は届いていました。
奥州藤原氏は一行を衣川館へと案内します。
やがて義経を庇護していた藤原秀衡が死んでしまいます。
しかし秀衡の子、泰衡は父の遺言を破り衣川館を兵で取り囲んでしまいます。。
多勢に無勢の戦いの中、弁慶は堂の入り口で薙刀を奮います。
しかし、雨のような矢を受けたため、仁王立ちしたまま死んでしまいます。
これを弁慶の立ち往生といいます。

以上、多くの弁慶の物語は多くは「義経記」で書かれるものです。
そのため、弁慶の存在すら疑われています。
一の谷の合戦以降は名前が散見されていますが、平氏追討までの前半生については創作だとされています。

静御前の薙刀

武蔵坊弁慶と並び有名な源義経の愛妾、静御前が使ったとされる薙刀が複数存在しています。

 三条小鍛治作

三条で有名な小鍛治宗近または小鍛治宗親の作といわれています。
三代将軍家光が鷹狩にこの薙刀を使います。
しかし、そのときに中心から折れてしまいます。
家来たちが、「大事な御道具を由ないことで損じてしまったものよ」と非難します。
そこで若年寄であった堀田正盛が「戦場で折れずに鷹狩で折れたのは幸いであった」と戒めたといいます。
折れた中心は鍛治・山城に継がせたといいます。
山城は、江戸石堂派の日置山城守一法、または山城守藤原国清だといわれています。

小屏風

1185年10月17日京都堀川の館で源義経が土佐坊昌俊の夜襲を受けます。
その時、静御前が揮ったといわれている薙刀です。

以後同家に伝来します。
1622年甚太郎という研師に研ぎ直させました。
すると、三日目に急逝したため世人は薙刀の祟りであると噂したといわれています。

権藤鎮教

銘「平鎮教」
金象嵌「権藤」(名物 権藤鎮教)
福岡市博物館所蔵
豊後国の刀工平鎮教の手による薙刀の名物
鎮教は「豊後高田住平鎮教」、「平鎮教」などと銘切りしており、豊後高田刀の名手。
二尺二寸八分

「権堂」は武将名、「鎮教」は刀工名。

由来

「権藤」の由来には二説あります。
・黒田家家臣の権藤平左衛門行澄
・高橋元種家臣の権藤平左衛門尉種盛
いずれにしろ薙刀は黒田家に伝来しました。

現存する薙刀

薙刀は長きに渡り広く使われました。
そのため作刀された数も多く有名なものも多いですが、戦場で使用されることが少なくなってからは
・薙刀直しをされる
・鋳潰されて槍、鍬や鋤などの農具の素材とされてしまう
・後年に磨り上げや切っ先の削ぎ落とし、後樋
などを行われているものが多いです。

薙刀自体は現代でも有名な刀匠の手によるもの、無銘の「数打ち物」と呼ばれるものなど多数が現存しています。

しかし江戸期以前のもので作刀当初の姿のまま現存しているものは少ないのです。
神社に奉納されたので、作刀された当時の姿のまま現代に伝えられている「大薙刀」と呼ばれるものが幾振りか存在しています。

日光東照宮の大薙刀

日光東照宮の大薙刀
刃長 65.9cm 反り 3.0cm 茎長 77.7cm
日光東照宮宝物館(栃木県日光市)が所蔵。

大薙刀 但馬国法城寺派作

大薙刀 但馬国法城寺派作
刃長 80cm
千葉県立中央博物館大多喜城分館(千葉県夷隅郡大多喜町)が所蔵。

大薙刀 銘備州長船兼光一振

大薙刀 銘備州長船兼光一振
長さ4尺6寸、身幅1寸5分、厚さ4分半
法善寺(山梨県南アルプス市(旧中巨摩郡白根町)加賀美)が所蔵。

最後に

いかがだったでしょうか?
全長が太刀などと違い長いため、あまり使われなくなってしまった薙刀。
しかし、その歴史は意外と長いものです。

また、かの有名な武蔵坊弁慶の持っていたとされる”岩融”
女性に人気のブラウザゲームの中でも有名なので知っている方もいたかもしれません。
そのほかにも有名な薙刀、現存している大薙刀も紹介しました。

この記事を読んで少しでも薙刀に興味を持っていただけると幸いです。

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