槍術の名人真田幸村は本当に十文字槍を使っていた!!

朱色の鎧兜を身にまとい、穂先が十文字の朱槍を手に敵陣中を駆け抜ける。真田幸村のイメージは大体こんな感じだと思います。真田幸村は十文字槍は機能性に特化している反面、扱いにくい武器でもありました。

目次

  1. 真田幸村の槍と他武将の槍を比較
  2. 戦国時代のメインは槍
  3. 兵器開発によって生み出された十文字槍
  4. 武将たちが争った「一番槍」と「槍働き」
  5. 真田幸村の十文字槍
  6. 真田幸村は十文字槍を使っていたのか
  7. まとめ

真田幸村の槍と他武将の槍を比較

真田幸村の愛槍といえば、穂先が十文字の形をしている十文字槍です。そのうえ柄に朱色が塗られており、とても目立ちます。
槍の名手と言えば賤ヶ岳七本槍に数えられる、加藤清正や福島正則をはじめとする7名。
日本槍柱七本では本多忠勝や直江兼続、吉川広家などがいます。しかし、彼らの扱う槍は直槍と呼ばれる、一本刃の槍です。その中でも本多忠勝の槍は刃渡り50cm超、福島正則の槍は刃渡りなんと約80cmです。それらに比べると真田幸村が使用していた槍は刃渡り30cmと短めです。
みなさんは、なぜ真田幸村が朱色で穂先が十字の槍を使ったのか気になりませんか?

戦国時代のメインは槍

槍

武士がメインで使う武器=刀というイメージを持っている方もいると思いますが、平安時代から室町時代末期まで、武士が最も重要視していた武器は専ら弓です。
つまり、強い武士=強い弓を引く+的中率が高い武士だったわけです。
実際、戦国時代に記されている「甲陽軍艦」をはじめとした軍記には、死傷者の数や何の武器によって死傷したかの記述があり、戦死・負傷要因の統計が「弓・投石が約7割、槍が2割、刀が1割」と言われています(戦国時代には、戦功者・討死者を記録する非戦闘員も戦場に同行していました)。

しかしながら、死傷者を多く出した弓よりも槍を重要視する当時の常識を覆す戦国大名が登場します。戦国大名の先駆者・北条早雲です。
弓を実戦で使えるくらいまで習得するには10年かかると言われており、そのうえ高級品であったため、下層級の武士や徴兵でかき集めらた足軽にはまともに扱うことができませんでした。そのため、北条早雲が考案したのが4m30cmの長槍です。そして、当時の槍の練兵では「一発で急所を突く」と教えていたのがスタンダードでしたが、「刺す、たたく、はらう」という方針に変更します。また、槍衾(やりぶすま)、横槍(よこやり)などの戦法の考案や槍の柄の素材を竹にして槍の軽量化と大量生産に成功します。
これにより、弓を扱えない足軽たちを戦力として活用できるようになり、北条早雲は戦国大名にまで登りつめます。このことから、戦国時代では槍がメインの武器として使われるようになりました。

兵器開発によって生み出された十文字槍

室町時代後期~江戸時代の始めまで、西洋からの鉄砲、明から大砲を導入したように、諸大名たちは他国に敗戦しまいと盛んに兵器開発を行いました。
それらを背景にして開発されたのが、真田幸村の愛槍・十文字槍です。
十文字槍は刃が三方向についているのは、刺突(突き刺す動作)の際に敵が避けにくい形状だからです。
攻撃面のメリットは、刺す、斬る、叩く以外にも鎧や兜に左右どちらかの刃を引っ掛けて、騎馬している者を落馬させることもできました。また、敵兵を薙ぎ払う際にも左右どちらかの刃が刺さるのでより確実に殺傷することができました。
防御面のメリットは、敵の槍に引っ掛けて刺突を抑え込んだり、斬撃を払うことができました。
しかし、十文字槍は扱いが難しく下手をすると騎馬している馬や自分を傷つけてしまうため、相当な腕前がなければ使いこなすことができない武器でした。

武将たちが争った「一番槍」と「槍働き」

敵軍に対して自軍の誰よりも早く槍で敵を討ち取った者を「一番槍」と言いました。「一番槍」は敵将の首級を討ち取るのと同等の栄誉でした。また、合戦後の恩賞に大きく関わる重要な名誉であるため、武将たちは軍令違反を犯してまでも、こぞって「一番槍」を争いました。

「槍働き」は、合戦でめざましい武功や戦功を立てた者のことです。たとえ、敵を弓や刀で倒したとしても、戦で顕著な働きをした者は「槍働き」と呼ばれました。

真田幸村の十文字槍

真田幸村が使用していた十文字槍は朱槍(しゅやり)だったそうです。朱槍は槍の柄が朱色に塗って装飾されている槍のことです。
朱槍を所持していたのは、単に真田幸村の好きな色が朱色だったわけでもなく、武田の赤揃えにちなんでいたわけでもありません。
なぜなら、朱槍には特別な意味があるからです。

武将の中でも槍術に優れ、戦場で槍を用いて多くの首級を討ち取った者は、主君より朱塗りの槍を贈られました。いわゆるMVPの証です。朱槍は、誰もが持てる物ではなく、槍働きとして主君から認められた武将のみが持てる栄光の武器でした。

真田幸村は十文字槍を使っていたのか

大河ドラマ「真田丸」では真田幸村が大阪夏の陣では十文字槍を使っていましたが、実際は薙刀を使用していたそうです。
幸村の首を取ったとされる越前松平の家臣・西尾家には、幸村討死の際に所持していたとされる薙刀が伝わっています。

しかし、関ヶ原の戦いのあと、謹慎処分となった幸村が過ごしたとされる九度山村には、幸村が実際に所持していたとされる「大千鳥十文字槍」の穂先が存在します。
あくまで推測ですが、関ヶ原の戦い以前は十文字槍を使用していたが、一度謹慎を言い渡された身になった幸村は負い目を感じ、大阪の陣では十文字槍を持っていかなかったのではないかと思います。
また、真田幸村の直系「仙台真田家」に幸村所有のものとして伝来している槍の穂先は、直槍の穂先でした。

まとめ

残念ながら、柄の部分は既に失われていますが、真田幸村が使用したとされる「大千鳥十文字槍」の穂先は、長野県長野市の真田宝物館で見ることができます。
上田城へ行った際には、真田宝物館の方にも足をのばしてみてはいかがでしょうか?

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