新撰組副長・土方歳三の愛刀”和泉守兼定”と”堀川国広”

新撰組「鬼の副長」と呼ばれた土方歳三。今回はそんな土方歳三が所持していた刀の中でも有名な二振打刀”和泉守兼定”と脇差”堀川国広”を紹介します。

目次

  1. 新撰組副長・土方歳三の生涯
  2. 土方歳三が「鬼の副長」と呼ばれる所以
  3. 二振の刀”和泉守兼定”と”堀川国広”
  4. 打刀と脇差
  5. 土方歳三と2振の刀

新撰組副長・土方歳三の生涯

土方歳三・誕生

土方歳三は1835年5月5日、武蔵国多摩郡石田村(現東京都日野市石田)に、農家の土方隼人(義諄)と恵津の間に10人兄弟の末っ子として生まれました。

江戸上野の「松坂屋いとう呉服店」に奉公に上がったという話が有名です。
石田村人別帳控により数えで14歳〜24歳の10年間であると考えられています。
その後、歳三は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の剣術道場で他流試合を重ね、修行を積みました。

1863年2月、近藤勇ら試衛館の仲間とともに、将軍徳川家茂警護の為と称して募集された「浪士組」に応募し、京都へ赴きます。
これが新選組・新徴組の前身組織です。

新撰組副長としての土方歳三

1863年に起きた八月十八日の政変後、芹沢・近藤らによる「壬生浪士組」の活躍が認められます。
そして遂に「新選組」が発足します。
その後近藤らは、1863年9月に新見錦を切腹に追い込み、芹沢鴨や平山五郎などを自らの手で暗殺してしまいます。
これにより権力を握った近藤が新選組局長に就任し、歳三は副長となりました。

1864年6月5日、歳三は半隊を率いて長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して廻ったが、そこには誰もいませんでした。
すぐに近藤・沖田らが担当していた池田屋に向かいます。
しかし直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩・桑名藩の兵を池田屋に侵入するのを阻み新選組の手柄を守る行動をとっています。
この結果、池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、天下に新選組の勇名が轟いたのです。

幕府の崩壊

1867年6月幕臣に取り立てられますが、同年10月には徳川慶喜が将軍を辞し大政奉還、さらに12月9日に王政復古の大号令が発せられるに至り、幕府は事実上崩壊してしまいました。
1868年1月3日、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、歳三は墨染事件で負傷した近藤の代わりに新選組を率いて戦います。
しかし新政府軍の銃撃の前に敗北し、江戸へ帰還しました。

4月11日に江戸開城が成立すると江戸を脱出し、下館・下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させます。
この際に足を負傷してしまい、歳三は本軍に先立って会津へ護送されることとなりました。
会津で約3ヶ月間の療養生活を送っています。

1869年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始されました。
島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣します。
歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦しました。
鬼のように戦い、馬上で指揮を執りました。
その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬してしまいます。
側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたといいます。
土方歳三35歳という若さでした。
辞世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」

土方歳三が「鬼の副長」と呼ばれる所以

新選組陣中法度、局中法度等の非常に厳格な隊規を考案したのは土方歳三であるとされています。

一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可
一、私ノ闘争ヲ不許
右条々相背候者切腹申付ベク候也(局中法度)

この5か条は子母沢寛の「新選組始末記」で紹介され広まったものですが、同時代史料にはこれを全て記録した物は現在までのところ発見されていません。
永倉新八が1913年に語った内容を載せた小樽新聞の記事には最後の「私ノ闘争ヲ不許」を除く4ヶ条しか提示されていません。
さらに「局中法度」ではなく、「禁令」「法令」としか言及されていません。

新選組内部では、常に上記法度(規律)を隊士らに遵守させ、規律を破った隊士に対してはたとえ幹部の人間であろうと切腹を命じており、隊士から恐れられていたとされています。
そのため、新選組隊士の死亡原因第1位は切腹であったといわれているのです。
また、脱走者は切腹または斬殺後見せしめにすることもありました。

このため土方歳三は「鬼の副長」と呼ばれ、新選組内においては冷酷な人物と怖れられたといいます。

二振の刀”和泉守兼定”と”堀川国広”

土方歳三は天然理心流道場では中極意目録までの記録しか現存していないにもかかわらず、喧嘩にめっぽう強く、実戦では最前線に立ち縦横無尽に戦っていました。
斬り合いの時に足下の砂を相手にぶつけて相手がひるんだ隙に斬り伏せたり、または首を絞めて絞殺するなど、剣術の型に因われない行動を取ったとされています。

打刀”和泉守兼定”

二尺八寸の和泉守兼定

江戸後期~明治の刀工・十一代目兼定こと和泉守兼定(会津兼定)の作。(一説では十二代とも)
新選組副長・土方歳三が、脇差の堀川国広と一緒に愛用していたと伝えられています。

現存する和泉守兼定には「慶応三年二月日」の銘が切られています。
そのため池田屋事件には参加していません。
加えて、十一代目兼定の門人・大隅守広光が記録した刀剣注文帳によると、新撰組では複数の兼定を所有していた事や、近藤勇が土方の義兄・佐藤彦五郎に宛てた手紙の中に
「和泉守兼定二尺八寸……」とあり、寸が異なっている事から、土方は寸違いの兼定を数振所持・使用していたとされています。

会津から転戦を繰り返し、函館戦争で戦死した土方の手から日野の家族の元に戻った経緯については、様々な説が伝わっています。
打たれてからわずか2年という歳月を主と共に過ごしながら、束糸(つかいと)には摩耗して使い込まれた痕跡が残っており、戻ってきた当時は刃こぼれが幾つも見つかったといいます。
時代の流れの中で多く遺失した新撰組ゆかりの刀剣として、現存する内の貴重な一振です。

脇差”堀川国広”

一尺九寸五分の堀川国広

上半がのたれ互の目、下半が直刃に堀川肌と確認できる肌立つ波文をしており、堀川国広作と伝えられます。
堀川国広は江戸時代の山城国の刀工です。
元先の幅差広がらず、近世初頭の慶長新刀の特徴を示しています。
高松藩家老家に伝来しました。

しかし堀川国広作の刀は、幕末においても非常に高値で取引されており、大名クラスでも手にするのが困難な刀剣でした。
この為、土方が所持していた堀川国広は贋作であったという説が一般的です。
また『国広は二尺以下の刀は打たない』という俗説がありますが、実際には『脇差 銘 日州古屋住国広作 天正十四年八月日』が重要文化財指定を受けており、他にも堀川国広作の脇差や短刀は実在しています。
ちなみに一尺九寸五分とは、だいたい59cm程度。
脇差としては長い部類に入り、「大脇差」と呼ばれます。

その後、土方歳三が函館戦争で戦死して以降の堀川国広の行方は杳として知れていません。
「和泉守兼定と共に日野の親族の下に戻ったが、太平洋戦争の最中に供出された」
「太平洋戦争終結後、GHQによって持ち去られ、海に投棄された」
という俗説がありますが、いずれも裏付けは存在していません。
また、現存する和泉守兼定を初めとした土方遺愛の品を保存する土方歳三資料館によると
「土方歳三の死後、日野に堀川国広という刀が戻ってきた記録は一切無い」
とされています。

その存在を、手紙の中のただ4文字によってのみ示される脇差・堀川国広ですが、新撰組に関する創作・物語においては、紛れもなく「鬼の副長・土方歳三遺愛の脇差」として、今も語り継がれています。

打刀と脇差

土方歳三の所有していた打刀”和泉守兼定”と脇差”堀川国広”の2振。
では打刀と脇差の違いとは一体何なのでしょうか?

打刀

打刀は刃を上にして差します。
地上で使用することを想定して作られているため、太刀に比べると短く反りも浅くなっています。
また、太刀は片手で扱う前提ですが、江戸時代中期以降の打刀は両手で扱う前提のため、太刀に比べると重量感があります。

打刀が隆盛するのは室町時代後期以降のことです。
日本全国で覇権争いが激化していくという時代背景により、大量の打刀が作られました。
それまでの打刀は平造が主流でしたが、この頃から打刀も太刀と同じく鎬造が主流になってきます。

また、太刀の茎(なかご)を磨り上げて打刀に直して使うということも多く行われました。
これは、戦国の覇者である織田信長や豊臣秀吉が率先して行ったと言われています。
長すぎる打刀の帯刀を幕府が禁じたため、江戸時代にも磨り上げが盛んに行われました。

元の茎が残らないほど短く磨り上げ、刃だった部分を新たに茎に仕立て直すことを「大磨り上げ」といいます。
銘が消えてしまった名刀には、刀剣の刀研師・鑑定家として名高い本阿弥家により、金象嵌という手法で銘が入れ直されることもありました。

金象嵌とは茎に金や銀などで銘文を入れることをいいます。
象嵌(ぞうがん)は工芸技法のひとつです。
象は「かたどる」、嵌は「はめる」という意味があります。
つまり、現在打ち刀として存在するものは
・元々打刀として作られたもの
・元は太刀だったものが磨り上げられて打刀になったもの
この二種類があるわけです。

元から打刀だったのか、それとも元は太刀だったのかを見分けるポイントとして
・銘がどちらにあるか
・無銘の場合は反りの深さの形状
などで見分けます。
ザックリ分類すると、太刀は反りが深く、打刀は反りが浅いという外見的な違いがあります。
また、身体に対して銘を外側にして帯刀した時
・刃が下を向いているのが太刀
・上を向いているのが打刀
という見分け方もあります。

ただし、打刀を太刀のように刃を下にして帯びることもあります。
これを天神差しと言います。
馬上や地に膝をついて戦う鉄砲隊はこの差し方をしていたそうです。

脇差

一言で脇差と言っても、その形状は様々です。
脇差は約30cm以上60cm以下の刀のことを呼びます。
しかし、同じ脇差でも作られた時代によって形状はかなり異なります。

たとえば、南北朝や室町時代の脇差は1尺(約30cm)より少し長いくらいの平造で、形状としては短刀に近い形状をしていますが、江戸時代の脇差は二尺(約60cm)近い鎬造で、打刀に近い形状をしています。

江戸時代は脇差の名品が多く生まれた時代

江戸時代、武士は公の場に出る時は、大刀と呼ばれる打刀と小刀と呼ばれる脇差を差すことを定められていました。
逆に言えば大小を差すことを許されているのは武士だけだったのですが、脇差に関しては武士以外の身分の者も持つことを許されていたため、この時代はたくさんの脇差が作らています。

また、武士よりも財力があった豪商が当時の刀工のスポンサーになったりもしたため、名品も数多く生まれました。

大小

大小(だいしょう)とは、武士が正装として所持していた2振の刀のことをいいます。
正兵装として所持していた本差と、その予備の刀である脇差の2振です。
揃えて差すため、2振りの刀は同じ拵えにされることも多く、刀工が始めから大小の刀をセットで打つ場合もありました。
語源は打刀の大小拵え(こしらえ:刀装)のうちの大きいほう(大刀)と小さいほう(小刀)からきています。

土方歳三と2振の刀

土方歳三

いかがでしたか?
新撰組「鬼の副長」と呼ばれた男・土方歳三と2振の愛刀”和泉守兼定”と”堀川国広”
"堀川国広"は現在、行方が分からず現存していません。
しかし”和泉守兼定”は現在、東京都日野市の「土方歳三資料館」が所蔵しています。
常設展示ではありませんが、土方歳三の命日にあわせて毎年4月から5月公開されています。
一度幕末を生き抜いた男とその愛刀に触れてみてはいかがでしょうか。

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