本多忠勝の子孫たちー家康配下最強の猛将の子孫とは?

本多忠勝という人物については、2016年の大河ドラマ「真田丸」に出てきた真田信之の妻稲姫の父親であり、また徳川家康の配下の猛将といえばわかるかもしれません。その本多忠勝の子孫はどのように後世を生き抜いたのでしょうか。本多忠勝の子孫を見ていきます。

目次

  1. 家康に過ぎたるもの、本多忠勝
  2. 本多忠勝の娘、小松姫ー真田家に嫁入り
  3. 江戸時代の本多忠勝の子孫たち
  4. 明治以降の忠勝の子孫
  5. まとめ

家康に過ぎたるもの、本多忠勝

本多忠勝

本多忠勝。徳川家康の配下最強の猛将にして、江戸幕府創設に尽力した徳川四天王の1人。生涯に出陣した57回の戦において一度も傷を負わなかった。

本多忠勝(1548~1610)は徳川家康の家臣で、井伊直政(初代彦根藩主)などとともに江戸幕府創立に特に貢献した徳川四天王の1人です。生涯に57回の戦に参加し傷一つ負わなかったほどの勇将でした。その勇猛さは、織田信長が「日本の張飛」と呼んだほどでした。
彼の生涯は主君である家康とともに戦った人生そのもので、武田信玄との三方ヶ原の戦い(1572年)や羽柴秀吉(豊臣秀吉)との小牧・長久手の戦い(1584年)、石田三成ら西軍との関ヶ原の戦い(1600年)など家康が臨んだおもな戦いのほとんどに参加しています。
忠勝を称賛する有名な狂歌として、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の兜に本多平八」というものがあります。「平八」とは忠勝の通称です。「家康が愛用していた唐の兜という南蛮渡来の兜と同様に、忠勝もまた家康にとっては欠かせない武将である」という意味であるこの狂歌に詠まれているように、忠勝は家康にとって覇業を支えるうえで不可欠な武将でした。
彼の甲冑姿は当時の戦国武将の多くと同様、かなり特徴あるものでした。鹿の角をあしらった飾りのついた兜、上から大数珠をまとった黒塗りの鎧、蜻蛉切の槍、そして愛馬は名馬三国黒。このように同じ徳川四天王の井伊直政が全身赤色の鎧に身を包んだのとは別の意味で際立った特徴が忠勝にはありました。
この本多忠勝ですが、主君の家康が秀吉の命で関東に移封になりますと、上総(千葉県)の大多喜の城主に、関ヶ原の戦いの後に伊勢(三重県)の桑名の初代藩主となりました。

本多忠勝の娘、小松姫ー真田家に嫁入り

2016年の大河ドラマ「真田丸」の主人公真田信繁(幸村)の兄である真田信幸(のちの信之)の妻である小松姫(稲姫)は本多忠勝の娘です。本能寺の変(1582年)ののち、甲信地方に進出した家康が信濃(長野県)の独立勢力だった真田昌幸と対立しついには合戦に至りますが、勝つことができませんでした。そこで家康は真田を懐柔するために、昌幸の長男である信幸と忠勝の娘である稲姫を結婚させようとしました。真田家の方でも、昌幸は当初渋っていましたが、信幸の進言もありついには承諾しました。
この稲姫は剛勇な父に似てしっかりした気性を持っていたうえ、容姿も端麗な女性でした。そんな彼女の気性を示すエピソードが残されています。
1600年、家康は会津の上杉景勝が上洛命令に従わないことを理由に諸大名を引き連れて出陣しました。家康の命は真田家にも届き、昌幸も信幸と信繁を連れて出陣します。が、下野(栃木県)の犬伏まで来たところに石田三成の反家康の軍に加わるようにという檄文が届きました。
親子での議論の結果、真田の家の存続のために信幸は家康ら東軍に残り、昌幸と信繁は西軍に加わることにしました。昌幸と信繁は本拠の上田城に籠城すべく引き上げる途上で、信幸の居城であった上野(群馬県)の沼田城に立ち寄りました。いつ死ぬかわからないため、生きている今のうちに信幸の子(昌幸の孫)の顔を見ておこうと思ったのです。
ところが入城の申し入れに向かった昌幸の使者に対し、小松姫は「義父であっても今は敵味方の間柄。主人の留守を預かる者として認めることはできない」と拒否したのです。昌幸としてはできれば沼田城を乗っ取ってしまおうと考えていたのですが、小松姫のこの潔い態度に「さすが本多忠勝の娘」と感心し、沼田城近くの寺に宿泊しました。
翌日、小松姫は子供を連れて義父昌幸を訪問、ここに祖父と孫との最後の対面を実現しました。
彼女の武門の家の娘としての潔い気性と優しさを物語るエピソードです。
ちなみに信幸と小松姫との夫婦仲は大変良好だったとともに、この夫婦仲が基盤になって信幸の真田家は江戸時代を生き抜いていくことができました。

江戸時代の本多忠勝の子孫たち

忠勝の息子、忠政と忠朝

本多忠政

関ヶ原の戦いの後、伊勢桑名藩の初代藩主となった忠勝は1610年に病没します。
本多家宗家の家督を継いだのが、忠勝の嫡男である忠政(1575~1631)です。
彼も譜代の臣であった父の忠勝と同様、主君の徳川将軍家のために奔走しました。
大坂の陣で活躍、とくに夏の陣では敵方の首級300近くを上げるという戦果を上げました。戦後、その功績を認められて1617年に播磨(兵庫県)の姫路藩主になりました。この時姫路城を改修してほぼ現在の姿にしたのがこの忠政です。言い換えれば、忠政は後世に姫路城が世界文化遺産として登録されるのに貢献したともいえます。

姫路城

現在の姫路城。もともと播磨の豪族黒田氏や豊臣秀吉、池田輝政ゆかりの城だったが、本多忠勝の嫡男本多忠政が入城後ほぼ現在の姿に改修した。

幕政については1619年に広島藩の福島正則が改易になった際にはその事後処理のために広島に出向き、また大坂の陣で夫に死なれ未亡人となった千姫(徳川家康の孫娘、豊臣秀頼の妻)と忠政の嫡男忠刻(ただとき)とが結婚しております。忠刻と千姫との間には一男一女が生まれましたが、ともに幼くしてなくなり、さらに忠刻も若くして結核で亡くなります。このように後継者については不遇な状況であったため、忠政の死後は次男の政朝が後を継ぎました。

本多忠朝

忠勝の二男忠朝は父親の剛勇さを引き継いでいました。
初陣も関ヶ原の戦いで、このとき島津勢に斬り込み奮戦する活躍ぶりを示しています。その後は父の領地である上総大多喜のちの内政に取り組み、とくに新田開発に力を注ぎました。
1614年に大坂の陣が勃発、忠朝も参陣しましたが、酒を飲んでいたため不覚を取ったために惨敗してしまいます。また家康に言い訳して持ち場の変更を願い出たため、家康から「父に似ない役立たず」と罵られるなど、華々しい活躍はできませんでした。
翌1615年の大坂夏の陣では、先鋒としてこの汚名を返上しようと大坂方の果敢に戦いますが、交戦の中で前に出すぎたために討ち死にしてしまいました。

忠政以後の子孫の相次ぐ早世とお家騒動

忠政以降、本多宗家を受け継いだ本多忠勝の子孫たちでしたが、そのうち多くの者が早く亡くなり、宗家当主の交代劇が頻繁に行われました。
そのため、260年近く続いた江戸時代の中で忠勝の子孫は2度もお家騒動に直面することになります。
最初のお家騒動は1671年に本多家第4代政勝が病死したことに端を発しました。これは、先代の第3代当主政朝の嫡男であった政長が父が亡くなった時まだ幼少で、祖先の忠勝の定めた家訓(幼少の者が家督を相続してはいけないというもの)で後を継ぐことができなかったため、政朝の後は従兄弟の政勝が後を継ぎました。政朝は臨終の間際に政長成長後には政長に跡を継がせるよう遺言していましたが、政勝はその遺言を守らず実子の政利に跡を継がせようと画策していきます。そのため、政勝亡き後に発生した九・六騒動と呼ばれたお家騒動で家中は二分します。

2度目のお家騒動は、1790年に発生しました。このころも本多家は度重なる当主の早世とそのあとの養子の後継とによって揺れておりました。この時のお家騒動も第12代当主忠典が急死し、そのあとに養子として忠顕(伊予<愛媛県>西条藩主松平家出身)が後を継いだ際に発生したものです。この時のお家騒動は当時の幕府老中松平定信(寛政の改革の実行者として有名)らが仲介に乗り出してようやく収まりました。
このように江戸時代の忠勝の子孫たちは相次ぐ早世やお家騒動など波乱に満ちた状況の渦中にありました。一時は後継ぎがおらず、本来ならばお家断絶となりそうなところを「幕府創設の功臣本多忠勝の子孫は絶やしてはいけない」ということで幕府の仲介で何とか後継者を見つけ出したこともあるほどです。

明治以降の忠勝の子孫

本多忠直:明治に入って最初の当主

260年に及んだ徳川政権も幕末から明治維新の騒乱の中で崩壊、明治新政府の時代になりました。
江戸時代の間、当主の相次ぐ早世や2度にわたるお家騒動と波乱に満ちた時代を経た本多忠勝の子孫の本多家も、初代忠勝から数えて16代目当主本多忠直(1844~80)の時代になっていました。彼もまた信濃小諸藩主牧野家出身の養子でした。同時に三河(愛知県西部)岡崎藩本多家第5代当主でもありましたが、1868年に時代が江戸から明治に移る中で忠直は新政府軍に降伏し恭順の意を示しました。
やがて1869年に維新政府は全国諸大名に人民と領地を政府に返還させる版籍奉還を行い、忠直も岡崎藩知事に任命されました。藩知事時代の忠直は貧民救済や藩校の創設などに尽力しました。
しかしその後、政府は版籍奉還にかわって廃藩置県を断行したため忠直も藩知事を免職となりました。
その後忠直は数年ほどヨーロッパに留学し、1878年に帰国しますが、その2年後に東京で病死しました。

本多忠敬:名誉市民となった忠勝の子孫

病死した忠直の後を継ぎ、本多宗家第17代当主となったのは14代当主忠考(ただなか)の孫である忠敬(ただあつ、1863~1920)でした。家督を相続して間もなく、彼は子爵に任命され華族に列せられました。
彼は先代の忠直が岡崎藩知事時代に尽力したものの廃藩置県によって頓挫した教育事業を受け継ぎ尽力しました。1901年には東京本郷にあった旧藩邸に東京に遊学していた子弟のために宿舎と学生寮を提供し、勉学に励む彼らを支援しました。
1915年の家康忠勝両公三百年祭で祭主を担当、忠勝の子孫として本多忠勝の生誕地に石碑を建立しました。また、1919年には旧岡崎城址一帯を岡崎市に提供し、当時の岡崎市長であった弟の本多敏樹が岡崎公園として整備し、一般に開放しました。
彼は1920年に亡くなりますが、没後40年ほどたって岡崎市の名誉市民に推挙されました。
なお、彼の弟本多敏樹は岡崎市の第2代市長を務めました。「殿様市長」と呼ばれ親しまれた彼は、岡崎市内の橋の架け替えや図書館の新築、下水道工事、岡崎公園の整備などの土木事業や岡崎市史の編纂事業に尽力しました。
このように明治以降の忠勝の子孫たちは、父祖の地である岡崎の地に尽力貢献しました。

まとめ

本多忠勝

徳川家康配下の猛将本多忠勝の子孫たちをみてきました。
猛将の血筋を受け継いだ忠勝の子孫の当主たちも江戸時代には早く亡くなる人が多く、そのために幕藩体制下でお家騒動も2回味わうことになったというたいへん波乱や苦難に満ちた時代を乗り越えてきました。
明治時代以降は、祖先である忠勝の出身地である岡崎にて活躍しましたが、子孫として故郷に錦を飾った行為といえるのではないでしょうか。
このように忠勝の子孫たちのたどった軌跡は非常に波乱万丈であったといえます。

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