織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の政策を比較

戦国時代の武将と言えば織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人。織田信長と豊臣秀吉は「長篠の戦い」、徳川家康は「関ヶ原の戦い」で活躍した、と小学校で習いましたよね。しかし、彼らの功績は戦いだけではありません。優れた政治家としての姿を紹介します。

目次

  1. 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のおさらい
  2. 織田信長の政策
  3. 豊臣秀吉の政策
  4. 徳川家康の政策
  5. 他の戦国大名の政策は?
  6. おわりに

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のおさらい

織田信長

織田信長は1534年、現在の愛知県である尾張国に生まれました。当時熾烈だった家督争いに決着をつけて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った所から彼の天下人への人生が始まります。
様々な策を講じて天下統一の寸前まで来ましたが、1582年、明智光秀の謀反による「本能寺の変」で自害することとなります。

子供の頃から奇抜な行動をすることが多かったらしく、周りからは「尾張の大うつけ」などと呼ばれていました。とある事情で尾張にやってきた松平竹千代(後の徳川家康)と交流が盛んだったらしく、二人が成長した後、非常に固い同盟関係を結ぶこととなります。

豊臣秀吉

豊臣秀吉は1537年、現在の愛知県である尾張国の農民の家に生まれました。武将の中では珍しい民出身という経歴を持つ彼ですが、持ち前の頭脳で徐々にその地位を上げていき、ついには信長の後を継いで天下統一を果たします。
晩年は明(当時の中国)を征服する足掛かりとして朝鮮へ出兵するなど、最後の瞬間まで激しい人生を送りました。

懐で草履を暖めて信長から高い評価を受ける、墨俣(現在の岐阜県)に一晩で城を築くなど、様々な逸話を残す非常に頭の切れる人物でした。また、将来有望な若い人物(石田三成など)を積極的に登用したとも言われています。

徳川家康

徳川家康は1543年、三河国(現在の愛知県東部)に生まれました。まだ幼い頃に母と生き別れになり、さらに人質として駿府へ送られている途中に父親の裏切りで尾張国へ送られるなど非常に壮絶な幼少期を送りました。
尾張国にいる間は少年期の信長と親しかったとされ、また、成長してからは関ヶ原の戦いを制して天下を掌握した後、200年以上も続く江戸幕府を作り上げました。

様々な辛い経験を乗り越え、我慢の果てに天下を掴み取ったことから「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」という有名な句も生まれました。75まで生きたとされ、当時としては非常に長生きであったと言われています。

織田信長の政策

楽市楽座

織田信長の行った政策で最も有名な物とされている物です。小学校でも習うので今でも覚えている方は多いかと思います。

当時の国と国の間にあった「関所」を撤廃することで商人の流入を促し、尾張の経済を活性化させることに成功しました。また、当時の座などの商業グループによって既得権化していた状態を改善し、個人でも自由に商売ができるようになりました。

人事

信長は各々の身分に関わらず、その実力を見て家臣を登用したと言われています。これにより秀吉が信長に仕えることになりました。また、元々から身分が高くても実績を残さない者は追放するなど、とても強い能力主義の考えが見られます。

奇抜な物が好きだった信長の家臣には、当時としては非常に珍しい、黒人の「弥助」と呼ばれる人物がいました。弥助は非常に信長に気に入られていたらしく、また、本能寺の変の際にも信長と共にいたと言われています。

豊臣秀吉の政策

惣無事令

天下統一の半ば、秀吉は九州・関東・奥羽(東北)に向けてこれを制定します。大名同士の私的な争いを禁じる令で、これに違反した者は厳しい処分が下されることになりました。

まだ秀吉の支配下になかった九州・関東(小田原)の征伐の大義名分にもなり、秀吉のしたたかな一面が覗かれます。天下統一後も、秀吉の支配の要となった物の一つだと言われています。

刀狩令

小学校でも習う有名な政策です。天下統一後、僧侶や農民から武器を取り上げ、一揆などをそもそも起こさせないようにする狙いがありました。

これにより「兵農分離」が進み、武士と武士でない者の区別が明確に付くことになります。しかし実際には刀以外の武器は取り上げられていない、という話もあります。

徳川家康の政策

重要地域の独占

天下統一後、家康は全国の約3分の1にも及ぶ程の土地を幕府の管理下に置きます。その中には当時金が大量に取れたとされる佐渡金山などの鉱山や、京、大阪、堺などの大都市も含まれました。これを背景にあの有名な「武家諸法度」が作られ、幕府の支持基盤は盤石な物となります。

あまりに強大になりすぎたため、朝廷も幕府の作った法に縛られることになってしまいました。

参勤交代

全国の大名をその領地と江戸を往復させる政策で、主に大名が自国で経済的に力を蓄えないようにする狙いがありました。1年置きに領地と江戸を往復するためその負担は非常に大きく、藩の軍事力は大きく低下することとなります。

また、大名の妻子を江戸に置く(人質に取る)ことで反乱を防いだとも言われています。江戸での滞在費用は全額大名が負担することとなり、江戸幕府が長く栄える要因の一つとなりました。

他の戦国大名の政策は?

武田信玄……信玄堤による治水

武田氏の治めていた領地に甲府盆地があり、その南部は笛吹川と釜無川の氾濫に悩まされていました。信玄の時代に作られたこれらによって洪水の被害は軽減され、米の生産力が増大しました。

毛利元就……民衆の心理的改革

毛利元就と言えば「三本の矢」の話が有名ですよね。一本の矢では折れてしまうが、三本の矢では折れなくなる、という話は「三子教訓状」によるものです。三人の子供に元就が送ったこの文書には、三人で一致団結して毛利家を盛んにさせるよう書かれています。

また、国民が皆で力を合わせれば何事も成し遂げられるとした「百万一心」の石碑が残っているなど、精神的な部分で臣下の者たちを引っ張って行ったとされる物が残っています。政策かどうかは少し怪しい所がありますが、これらのことが国の隆盛に繋がったことは間違いありません。

おわりに

いかがだったでしょうか?
戦国時代の武将、となると戦っているイメージが先行してしまいますが、彼らは戦いのプロであると同時に政治のプロでもありました。
時には先人たちの功績に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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