さまざまな運命をたどった徳川家康の息子たち

織田信長や豊臣秀吉と並んで戦国時代を終焉に導いた英傑、徳川家康。彼には多くの息子たちがいましたが、栄華を得ることができた者もいれば、悲劇的な運命をたどった者もいます。今回は、そんな徳川家康の息子たちにスポットを当てていきます。

目次

  1. 11人もいた徳川家康の息子
  2. 長男:信康―父に将来を期待されたが・・・
  3. 次男:秀康ー人質と養子の末に、越前国主に
  4. 三男:秀忠ー江戸幕府2代将軍、子に家光も
  5. 四男:忠吉ー関ヶ原で勲功を立てたが・・・
  6. 五男:信吉ー名門武田家を再興したが・・・
  7. 六男:忠輝ー父に疎まれた末に
  8. 七男:松千代と八男:仙千代
  9. 九男:義直ー尾張徳川家の祖
  10. 十男:頼宣ー紀州徳川家の祖、子孫に吉宗
  11. 十一男:頼房ー水戸徳川家の祖、あの人の父
  12. おまけ:息子たちにより姓が違う
  13. まとめ

11人もいた徳川家康の息子

若いころの苦難や忍耐の日々を経て、100年以上に及ぶ戦乱の世を終焉させて泰平の世を築いた英傑徳川家康。彼は子供が多く、息子だけでも11人もいました。これは、家康がやたらと戦死の多い戦国の世において家を絶やさないために妻を多く持ち、子孫を絶やさぬようにした結果です。
その11人の息子たちも大名になった者もいれば、残念ながら早くに亡くなった者もいます。

長男:信康―父に将来を期待されたが・・・

松平信康。徳川家康の嫡子として、将来は徳川家を背負うべく期待されたが、織田信長の命により非業の最期を遂げた。

武勇に優れた息子

長男の信康は、家康が駿河(静岡県東部)の大名今川義元の人質だった頃、妻に迎えた築山殿(義元の姪)との間に生まれ、幼少期は今川家の人質として過ごしました。
家康が桶狭間の戦いの後に今川家から独立、三河(愛知県東部)国内の統一戦を進める中で徳川家に戻ることができました。そのころの家康は尾張(愛知県西部)の織田信長と同盟を結んでいたため、1567年には信長の娘である五徳を娶ったうえ、信長から一字もらって「信康」と名乗りました。
その後家康が本拠を三河の岡崎城から、遠江(静岡県西部)の浜松城に拠点を移すようになると岡崎城の守りを任されるようになりました。
1573年には初陣を果たし、1575年の長篠の戦いなど、当時信長や家康の宿敵であった甲斐(山梨県)の武田家との戦いで活躍するようになったことから、父である家康から将来を期待されるようになりました。

悲劇的な最期

しかし、母の築山殿と妻の五徳とは折り合いが悪く、ついに五徳が父である信長に「武田家に内通していること」などを理由に信康と築山殿を非難する書状を送るという事態に至ります。このことを受けて信長は家康に対し信康の切腹を命じました。徳川家の家臣の中にはこの信長の要求に反発する者もいましたが、家康は結局信康を別の城に移したうえで、切腹を命じるに至りました。

次男:秀康ー人質と養子の末に、越前国主に

結城秀康。徳川家康の二男でありながら、結城姓を名乗っていたのは、関東の結城家に養子に入ったため。

秀吉の人質そして養子へ

次男の秀康は幼名を於義丸といいました。兄の信康が切腹した後、幼くして徳川家の後継者とされました。
しかし、徳川家康が1584年に羽柴秀吉(豊臣秀吉)と戦った小牧・長久手の戦いの講和の条件として秀吉の人質となりました。まもなく秀吉の養子になり、その後元服した際に名前も秀吉と家康から一字ずつもらう形で「秀康」と名乗るようになりました。このため徳川家の後継者も弟の長松(徳川秀忠)とされました。
1587年、秀康は14歳で秀吉の九州征伐に従軍して初陣、大いに活躍しました。これをきっかけに1590年の小田原征伐や1592年の朝鮮出兵の時の名護屋城留守居役と、武将として抜群の戦果を挙げていきます。

再び他家の養子に

そのころ豊臣家中では秀吉に待望の男子が誕生。鶴松と名付けられた男子を秀吉は豊臣家の正式な跡継ぎと決めました。このため、秀康は再び他家に養子に出されることになりました。
次に養子に出された先は関東の結城家で、秀吉の家臣である黒田官兵衛の仲介の結果でした。秀康はそこで当主の結城晴朝の姪と結婚、結城家の家督を継ぐことになりました。彼が「結城秀康」を名乗ったのはこのためです。

関ヶ原を経て、一族最大の領主に

1598年に秀吉が亡くなると、豊臣家中では家臣同士が対立。その間を縫うように徳川家康が次の天下人の座に向けて動き出すようになります。そして1600年、家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍が美濃(岐阜県南部)の関ヶ原での決戦に至ります。
この時秀康は、関東にて西軍側の上杉景勝(上杉謙信の後継者)の抑える役割を果たしました。
戦後、秀康は越前(福井県)の北ノ庄に移され、この地に福井城を築城しました。秀康がこの地に移されたのは、北の加賀藩(石川県)に対する抑えの役割を期待されてのことでした。
彼の石高は67万石と徳川家の一族では最大級のものでしたが、彼のもとに徳川家当主=江戸幕府将軍の座が転がり込むことはありませんでした。
晩年は梅毒に苦しむ日々を過ごした末、34歳の若さで亡くなっています。

三男:秀忠ー江戸幕府2代将軍、子に家光も

徳川秀忠。三男でのちに2代将軍となったが、父家康は大御所として引き続き実権を握った。息子に三代将軍として有名な家光がいる。

家康の後継者に

三男の秀忠は1579年に誕生、幼名を長松といいました。
彼が生まれた年、後継者とされていた長兄の信康が切腹。次兄の秀康が後継者とされましたが、彼もまた豊臣秀吉の人質のちに養子となりました。
このため長松は幼くして徳川家の後継者とされるようになりました。
1590年に彼も秀吉の元に人質という意味で上洛し、その時点で10歳ではありましたが元服し、秀吉から一字をもらって「秀忠」と名乗りました。

秀忠の正妻となったお江。秀忠の間に2男5女を設けるが、男子の誕生はやや後になってからのことである。

1595年には、秀吉の側室である茶々(淀殿)の妹であるお江と結婚しました。実は、これより前に織田信雄の娘と結婚していたのですが、信雄が秀吉の逆鱗に触れて改易されたために離婚していました。

関ヶ原に間に合わず―生涯の汚点に

1600年、徳川家康は秀吉亡き後の天下を掌握すべく、石田三成率いる西軍との対決をすることになりました。秀忠は3万8千の大軍を率いて中山道を通って西へ向かうことになりました。
しかし、途上の信濃(長野県)で西軍の真田昌幸・幸村親子と交戦。真田の上田城を攻め落とせなかったうえに、そのあと川の増水や難路もあって決戦に遅れるという失態を犯してしまいます。

上田城。西に向かう途中、秀忠はこの城を攻めるが、真田昌幸・幸村親子に翻弄されて攻め落とすことができなかった。

その間家康は東軍を率いて関ヶ原で勝利を収めていましたが、あとから遅れて来た秀忠を叱責します。
この件で秀忠の後継者の座も危ういものとなりましたが、家臣のとりなしで秀忠は家康の赦しを得ることができました。ただ、この一件で秀忠には戦下手という評価が付きまとうことになります。

待望の男子誕生、そして2代将軍に

1603年、家康は征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きました。
このころ秀忠はお江との間に子供を何人か設けていましたが、いずれも女子であったため、男子待望の声は徳川家中で増すばかりでした。
そんな折の1604年、ようやく男子が誕生、竹千代と名付けられました。彼こそがのちの3代将軍家光です。さらに2年後には国千代(忠長)が誕生します。
そのころ家康は将軍職を秀忠に譲りますが、自らは大御所として駿府(静岡)で引き続き実権を握ります。天下に徳川家の世襲体制を示すことが目的でしたが、ついに秀忠も第2代将軍となりました。

名実ともに最高権力者に

幕府を開いた徳川家康でしたが、大坂城には依然として豊臣秀頼とその母淀殿が君臨していました。地方にも加藤清正や福島正則といった豊臣家を盛り立てようとする豊臣恩顧の大名も健在でした。そこで家康はさまざまな手を尽くして豊臣家を倒そうと画策します。
ついに1614年、豊臣家が修繕した京都の方広寺の鐘銘を家康が非難したことがきっかけで大坂冬の陣が始まります。秀忠も総大将として大軍を引き連れて参戦します。
講和期間を経た翌年の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした家康と秀忠は、その直後に武家諸法度など幕府の体制を盤石のものにする諸制度を整備していきます。
翌年、家康は駿府城で75年の生涯を閉じました。これにより秀忠は名実ともに幕府の最高権力者になりました。

息子家光の時代へ

父家康から引き継いだ幕府の治世を盤石のものとするために秀忠は様々な政策を断行していきます。大名に対しては統制を強化、武家諸法度に違反した大名は改易しました。
さらに九男の義直を尾張に、十男の頼宣を紀伊(和歌山県)に、十一男の頼房を水戸に配置して御三家体制を確立。次男の忠長には甲斐・駿河・遠江三ヶ国を与えるというように将軍家一族の権力を強化していきました。
朝廷のほうにも娘の和子を後水尾天皇の中宮(皇后)として入内させ、その娘はのちに明正天皇として即位することになります。さらに、1629年の紫衣事件をきっかけに朝廷や寺社への統制も強化しました。

第109代明正天皇。後水尾天皇と秀忠の娘和子の間に生まれる。彼女の即位によって、徳川将軍家は外戚として君臨することになった。

外国貿易についても鎖国政策を行い、オランダ船の寄港地を平戸と長崎に限定しました。
1623年には将軍職を嫡男の家光に譲り、自らは大御所として江戸城の西の丸に君臨しました。
1631年、二男の忠長の悪行が目立つようになったために、領地没収の末に蟄居を命じましたが、このあたりから体調を崩し、翌年に54年の生涯を閉じました。
その後は三代将軍である長男の家光が幕府の体制をゆるぎないものにしていきます。

四男:忠吉ー関ヶ原で勲功を立てたが・・・

幼いころから城主に

四男の忠吉は1580年に誕生、幼名を福松丸といいました。のちに2代将軍となる兄の秀忠と同じ母(お愛の方)から生まれています。
忠吉は幼少のころから大名になった履歴を持っています。1581年、2歳のころに後継者がいなくなった東条松平家の家督を継いで三河東条の1万石の領主になり、忠康と名乗りました。翌年には駿河沼津3万石の領主になっています。
その後兄の秀忠とともに豊臣秀吉に元に人質生活を過ごし、父徳川家康が小田原征伐(1590年)のあと秀吉の命で関東に入った際には、武蔵(東京都・埼玉県)の忍城主10万石を領するに至りました。その際に正式に元服して、名も忠吉に改めました。さらに、井伊直政(徳川四天王の1人、のちの初代彦根藩主)の娘を妻に迎えています。

関ヶ原での活躍、その後

1600年の関ヶ原の戦いの際、忠吉は21歳。東海道を上る東軍の総大将として福島正則ら諸大名を引き連れて西へ向かいました。
そして、9月15日の関ヶ原での決戦の際は井伊直政の援護を受けて初陣を果たすとともに、先陣を切ったり、島津軍の島津豊久を打ち取るなど目覚ましい活躍をしました。
しかし、この時、島津軍の銃弾を受けて負傷しています。
戦後、尾張と美濃合わせて52万石の領主として尾張の清洲城に入りました。そして、江戸幕府の成立後、2代将軍となった兄の秀忠を補佐しましたが、関ヶ原で受けた傷が悪化して、1607年に28歳の若さで亡くなりました。
死後、忠吉には後継者となる息子がいなかったため、家康の九男である義直が引き継ぐことになります。

五男:信吉ー名門武田家を再興したが・・・

甲斐武田家の復興を望んだ徳川家康

五男の信吉は1583年生まれ、幼名を福松丸といいました。母親は甲斐武田家家臣であった秋山虎泰の娘で、しかも彼女は武田家の遠い分流でした。
このころ徳川家康は東海地方と甲信地方に大勢力を築き、前年には盟友の織田信長とともに甲斐武田家を滅ぼしています。
そのころの家康は、名門であった武田家(祖先は源氏)をどうしても復興させたいと願っていました。武田家の生き残りである武田信治を当主に据えたものの、早くに亡くなってしまいました。
その後、家康が関東に移った際に武田家復興を再び試みることにしました。そこで選ばれたのが自分の息子の中でも武田の血を継いでいる信吉だったのです。

早すぎた最期、武田宗家の断絶

このようにして父の願いを実現する形で復興した武田家の当主となった信吉でしたが、元来病弱で関ヶ原の戦いになっても初陣を果たすことができませんでした。その後の1602年に常陸(茨城県)の水戸に25万国を与えられましたが、翌年21歳の若さで亡くなりました。
彼には子供がいなかったために、せっかく再興した武田宗家もここに断絶してしまったのです。

六男:忠輝ー父に疎まれた末に

松平忠輝。家康の六男ではあったが、父に冷遇された末、家康の息子たちの中でも数奇な運命をたどることになる。

生まれた時から嫌われた家康の子

六男の忠輝は1592年に生まれていますが、生まれた時から父に嫌われるという不遇な扱いを受けました。
家康が忠輝を嫌った理由としては、母親の身分が低かったことや、生まれつき醜い風貌をしていたことなど様々な理由が挙げられています。
父親の忠輝嫌いは、忠輝自身の出世にも影響を及ぼしました。彼はのちに長沢松平家の家督を相続しましたが、実はそれも弟で家康の七男である松千代が養子に入った家だったのです。さらに後になると、御三家を立藩した3人の弟に比べて出世のスピードが遅かったことも挙げられます。

伊達政宗の娘婿に

このように父親から冷遇された忠輝でしたが、縁組の話が舞い込んできました。
相手は東北の独眼竜として有名な伊達政宗の娘五郎八(いろは)姫です。この姫君は武術にも長けるなど勝気なところのある娘で、一方の忠輝も武術や茶道などを趣味にしていたためか夫婦仲はとても良好だったと言われています。
さらに、舅の政宗は1610年の忠輝の越後移封の際に居城高田城を築城したり、大坂夏の陣の際には戦経験のない忠輝を補佐したりするなど、こちらも婿と舅の良好な関係でした。

乱行の末の改易、その後

1614年10月、方広寺の鐘銘事件をきっかけに家康は大坂攻めを開始しました。しかし、忠輝には留守居役を命じられ冬の陣での出陣はかないませんでした。翌1615年の大坂夏の陣では出陣に至りましたが、遅参という失態を演じ、このため家康から対面を禁じられてしまいます。
また、「忠輝には家臣をむやみに手打ちにした」「キリシタンと親しい間柄にあった」「兄である将軍秀忠の家臣を殺害した」といった乱行の噂が目立つようになりました。
結局、翌年家康が亡くなった時も面会はかなわず、その後秀忠から改易のうえ飛騨高山、さらに各地を転々とした末に信濃の諏訪に流罪を命じられました。
この忠輝ですが、家康の息子たちの中ではかなり長生きして1683年に92歳で亡くなっています。ちなみに徳川宗家が忠輝の罪を許したのは、なんと1984年、昭和59年のことです。なんでも忠輝の葬られた寺の住職の夢に忠輝が出てきて、「赦免してもらえないか」と訴えていたことがきっかけだそうです。

七男:松千代と八男:仙千代

七男の松千代は1594年に誕生しました。生後間もなく、後継者のいなくなった長沢松平家に養子という形で後継者となりました。しかし、1599年にわずか6歳で亡くなり、そのあとは彼の兄である忠輝がこれもまた養子という形で跡を継ぎました。
八男の仙千代は1595年に生まれました。しかし、彼もまた1600年にわずか6歳でこの世を去りました。仙千代については、家康譜代の家臣である平岩親吉の養子にもなっております。

九男:義直ー尾張徳川家の祖

徳川義直。尾張徳川家の祖。真面目で堅実な性格で、家康の子であることを誇りに思っていたといわれている。

尾張藩の立藩

九男の義直は1600年に誕生し、幼名は五郎太丸といいました。6歳の時に元服して義直と名乗りました。
元服して間もなく甲斐甲府藩主となりましたが、幼少であったため父家康のいる駿府で育ちました。元服の翌年、腹違いの兄である四男の松平忠吉が後継者を残さないまま亡くなったため、その所領である尾張清洲の地を受け継ぐことになりました。ただ、いまだ幼少であったため彼の尾張入りは大坂の陣の後になります。ちなみにこの時彼が入城した城が名古屋城で、1610年に家康の手により新築がなったばかりの城でした。
尾張藩の初代藩主となった義直は、灌漑用水の整備や新田開発など内政に力を注ぎ、尾張藩の基礎を固めるべく尽力しました。
また学問、とくに儒教と神道を好んでいたため、父家康の形見の書物や自分で収集した書物をまとめて「蓬左文庫」を開設するなど、藩内での学問も奨励しました。

家康の息子としての自覚やプライドゆえに

義直は実直で生真面目な性格でした。
彼は正室の春姫とは浅野家との政略結婚という形で結ばれましたが、2人の関係は義直の生真面目さもあって大変良好でした。その一方で学問好きで儒学や神道の教えを真面目に守ろうとする性格であった義直は側室を持とうとは考えませんでした。春姫との間になかなか男子が生まれなかったので、結果的に側室を持つことになりましたが。
また、彼の生真面目さは尾張藩の気風にも影響を与えました。ただ、その真面目な気風ゆえに御三家筆頭でありながら将軍候補を輩出することができませんでした。江戸時代中期の政争には尾張藩の生真面目な気風では対応しづらかったというのもあります。
また家康の息子としての自覚やプライドが強すぎたゆえに、3代将軍である甥の家光とはたびたび衝突しています。性格面の相違や、政策方針の違いが原因のようです。
1650年、義直は49歳で病死します。そのあとは側室との間に生まれた光友が継ぎました。

十男:頼宣ー紀州徳川家の祖、子孫に吉宗

徳川頼宣。幼いころから家康のもとで武術を仕込まれたがゆえに、御三家を創設した息子の中でも剛毅な人物であった。

父から薫陶を受けた幼少期、剛毅な人物に

十男の頼宣は1602年に伏見で生まれました。2歳の時に常陸水戸20万石を、5歳の時に駿府50万石を与えられましたが、幼少であったため家康のもとで過ごすことになります。
彼は御三家の祖となった3人の息子の中で最後まで家康と共に過ごし、家康も自ら教育に当たりました。特に武術については幼いながらも馬に乗せてしつけたほどです。
そのためか剛毅あふれる人物に成長し、大坂の陣では初陣を果たしました。夏の陣の際、先陣を願い出ましたがさすがに家康もこれは却下しました。これも頼宣の剛毅さゆえでしょうね。

紀州藩の立藩

その頼宣も1619年には紀州の和歌山に移封となり、彼も尾張藩を立藩した兄の義直と同じように内政を充実して紀州藩の基礎を固めていきます。和歌山の城下町の整備や優秀な人材の登用も行っています。
現在、和歌山県は愛媛県と並ぶ全国有数のみかんの産地ですが、そうなったのは頼宣がみかんの味を気に入って税を免除して生産を奨励したことが由来です。
紀州藩主としての彼の治世は1667年には47年に及び、ついにそのころになって嫡男の光貞に家督を譲り隠居しました。この光貞の四男が幕府8代将軍として名高い吉宗です。

十一男:頼房ー水戸徳川家の祖、あの人の父

徳川頼房。水戸藩の藩祖で、家康の末子。他の御三家を開いた2人の兄とは違い、常に江戸にあって将軍家を補佐した。

家康の末子

十一男の頼房は、1603年に誕生しました。家康の末子ということで父からは非常にかわいがられていました。彼もまた兄たちと同じように幼少の身で1606年に常陸の下妻10万石を、1609年には水戸20万石を与えられました。しかし、やはり幼少のために内政は藩家老や代官が代行し、頼房もまた家康の元で過ごしました。
父の死後の1619年、17歳になった頼房はようやく水戸藩に入国します。ただ、最初の入国から2か月後には江戸へと戻っております。

定府の藩

頼房は尾張藩や紀州藩を築いた2人の兄とは違って、常に江戸に常駐して将軍家を補佐する「定府」の立場にありました。その代わり、全国の藩では唯一参勤交代が免除されていました。
この立場のため、頼房は生涯で領国である水戸藩に入ったのは十数回で、藩の内政は城代や藩家老が代行しました。ただし、入藩するたびに藩内の諸制度の制定や、水戸城の修復、城下町の整備など内政に心を砕きました。
ちなみにこの定府ですが、3代将軍家光が御三家の中でも特に頼房を信頼して、常に助言を求めていたことが事の起こりとされています。
この先例により、水戸徳川家の代々の当主は常時江戸にあって将軍を補佐する立場ということになり、彼らが「副将軍」と称する根拠にもなったほどです。

息子のあの人は、徳川家康の孫

水戸藩2代藩主徳川光圀。頼房の息子で、家康から見て孫にあたる。

さて、この頼房は水戸藩の初代藩主ですが、その息子こそが水戸藩第2代藩主である徳川光圀、そう有名な水戸黄門です。つまり徳川家康から見ると孫に当たります。
ちなみに「黄門」というのは、光圀の官位であった権中納言の唐名(中国の官位にあてはめた名称)のことです。
なお、往年のテレビドラマの主人公でもおなじみの水戸黄門こと光圀は、実際には全国を漫遊したわけではありません。
これもやはり初代頼房のころにできた定府の慣例によるものです。そのため遠出するにも基本的には江戸と領国の水戸を往復するついでに領内を見て回ったり、近辺の土地に寄り道する程度のものだったというのが黄門様の漫遊の実際の姿でした。

おまけ:息子たちにより姓が違う

ここまで徳川家康の11人の息子がたどった生涯をみてきましたが、みなさん、何か違和感を覚えませんか?
そう、息子によって姓が「徳川」だったり「松平」だったり、あるいは養子に入った家の姓になっているのです。
実はこれには深い理由があるのです。江戸時代に入ってから、「徳川」を名乗ることができるのは、将軍家の直系か御三家の人間に限るということが定められたからです。そのため、歴代将軍の血筋や御三家出身者以外の人物が松平姓であるのはこのためです。
ちなみに二男の結城秀康は、関ヶ原の戦いの後に越前に移され越前松平家の初代になりましたが、彼がその後姓が結城のままでいたのか、松平を名乗ったのかについては資料によりさまざまであるため、今も謎に包まれています。

まとめ

いかがでしたか。こうしてみてみると、徳川家康の11人の息子の中にも将軍になった者、大名になった者、若くして亡くなった者など様々であることがわかるかと思います。
十人十色ならぬ、十一人十一色とまでは言いませんが、それぞれのたどった人生模様もまたいろいろなものでしたね。

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